雨が降りそうな日に、
僕らは海へやってきた

(初夏、豪雨の山陰行き)





二度目の山陰行、今夏は土砂降り。

1日目:京都→米子

◆行き
一番前の席、幸先良い。
大山崎・高槻・大山経由で、終着点米子駅前迄所要時間約4時間、途中安富PAで鈴虫売ってた。
祇園囃子に噎せ返る7月、山鉾巡行完全無視し、小雨降る京都を脱出、高速バスで鳥取県へ向かったはいいが、その鈴虫安富PAを過ぎたあたりで雨が激しくなってきた。
前方を行く車が跳ね上げてゆく水しぶきがいつの間にかスプラッシュ・マウンテン。窓から遠くに見える山々が、霧状の雨で真っ白。

◆駅着→リビドー
そんな大雨にも関わらず、バスはなんとか米子に到着。 「ようこそ来てごしなった」(だっけ?)という方言看板に迎えられる。窓から見える工場群が、不思議な郷愁を覚えさせた。

米子駅で下車後、お腹がすいていたので、早速向かったところは、菓子工房・リビドー。

リビドーは、店内の至るところにお花が飾られた気配り、ケーキの美しさと美味しさ、そして何よりもその名称のインパクトゆえに、偏愛するケーキ屋さんなのである。以前の山陰2泊3日の際は、3日連続リビドー通いをした。(注:その後、リビドー店長さんにお手紙を出し、店名の由来を伺った。)
米子には、「メゾン・ド・リビドー」なるマンションもあり、どーやら「リビドー」が流行中のようであった。

数年ぶりのリビドー。雨に濡れてはいるけれども相変わらず綺麗な花壇のお庭を通る。入口には、貸し出しサーヴィス用の傘がたくさん置いてある。「ご自由にお使いください」。親切である。街について「やさしい」とか「やさしくない」とか形容するのは余りピンと来ないのだが、米子は、全体的に親切な街であるように感じる。
空腹であったため、思い切って、「ケーキ懐石」なるものを注文した。内容は、ベリーとチョコの載った美しい形のケーキ、クレープっぽいもの、クッキー、アイスクリイム、シャーベット、フルーツ、と、こうして記しているだけで胃の中が甘ったるくなりそうだが、意外に甘味と酸味のバランスが取れて、難なくぺろっといただけるという、リビドーの才能が炸裂したメニウであった。


自分への土産として、ミント生チョコを購入。よくある軟弱なチョコ勝ちミントチョコでなく、ミント100パーセントに近いミント勝ちで、ラッピングもミント色。ミントファントしては嬉しい限り。

◆郊外
前回来たときに比べ、郊外が開発されていた。 UNICLO など、郊外型店舗が増えている。 「本の学校」で買い物をした。「本の学校」は変わった設計の書店である。昔は、何か面白い施設も併設されていたと聞く。
ホームセンター壁面にはでかでかと、「山陰最大のペット売場」の文字。

◆ひとり白木屋、ひとりサティ
郊外散策ののち、夕食。
米子の知人に、美味しい店を尋ねたところ、あっさり「ない」と言われてしまったため、仕方なく、自分で探しに出かける。
山陰は蕎麦が美味いという思い込みのもと、蕎麦を食べようとしたのであるが、蕎麦屋が見つからず、また、雨足もひどくなってきたため、蕎麦探しを諦め、結局駅前の白木屋にとぼとぼと入る。
だが米子白木屋は、独り客にも親切だった。
地元の白木屋で、独りで入店して冷たくされた思い出があるため、びくびくしながら潜入したのだが。よそ者の勝手な印象ではあるが、米子は、道を歩いていてもお店に入っても、親切人に遭遇する率が高いように感じる。
変な薬草酒みたいなのを頼もうとしたら、わざわざ、「それあんまり美味しくないですよ」と教えてくださった。

食後、米子SATY(米子最大のショッピングスポット?)をふらふら歩き、ひとりプリクラに興ずる。
プリクラとはご存知90年代後半に出現した格安写真シール製造マシーンである。わたくしの知っているプリクラというのは、「証明写真の安いヴァージョン」くらいのものであったのだけど、その認識は90年代後半で止まっていたようで、現世代プリクラは、そこから飛躍的・独自的な進化を遂げており、肌の色を変えたり背景を変えたりいろいろ書き込んだりできるようになっていた。とりあえず、自分の写真の上に、「よなご」という文字を書き込んでみた。

◆海
夕食後、海へ向かう。
そもそも今回は、まず、海に行きたいと思っていたのだった。
前回来たときは湊山公園方面へ出たのだが、今回は、皆生温泉の方へ。

シーサイドホテルの脇でタクシイから降ろしてもらい砂浜へ出る。日中少し弱まっていた雨は、再度激しくなっていた。暴走族いるやろか・不審船来たらどーしよ、などという心配は無用であった。あまりの雨に彼らも大人しくしていたのか。それでも、砂浜の脇には、自転車が二台乗り捨てられており、他にも人がいることが分かった。
海は真っ暗で、シーサイドホテルの灯りに反射して見えるのは辛うじてテトラポッドの山のみ。波の音も聞こえないほど雨音がひどい。
それでも折角来たのであるから、サンダルを脱ぎ、波打際へ突入する。砂の感触はさらさらとやさしいが水は冷たく、入水自殺気分になってくる。傘をさしたままではあるが、海に足を浸しているというだけでむやみに気分は高揚するもので、全くの阿呆みたいに、小一時間はしゃぐ。



膝まで浸かった。しばらく膝まで浸かっていた。足元に、フナムシだかカニだかが蠢いていたが、なにぶん暗くてよく視認できなかった。

宿への帰り道、米子がトライアスロン発祥の地であるというマメ知識を得る。





2日目:米子→境港→米子→京都

起きて外を見るとやはり雨。
ホテルの朝食は、海の幸が多かった。
しかし前日から疑いを抱いてはいたのだが、この日このホテルには、宿泊客は自分のみだったのではなかろうか。他の客に一度も遭遇しなかった。
無人の食堂で、黙々と魚と海苔を食べた。

食べ終わっても雨は降り続いている、というか、より強くなっている。
しばしぼんやり窓から雨の米子を眺めたのち、気を取り直し、服を着替えて、何処へ行こうか思案する。
本当は、晴れていたら松江に行こうと思っていたのだった。前回松江に行った際は、或るオッチョコチョイによってピンポンダッシュ的観光しかできなかったので、今度はゆっくりと、八重垣神社などを再訪したかったのだが。しかし、雨の中の田舎道ウォーキングはあまり気がすすまない。

やはり、米子の友人に、「米子でおすすめのスポットを教えて欲しい」 とお伺いを立ててみるも、お返事は案の定、
「ない」
という一言であった。
「一番のおすすめは、京都に帰ること。なぜなら、米子には、見るところがない から。強いていうなら、境港。」

それ米子ちゃうやん! とつっこんだのであるが、そう言われるとなんや急に境港に行きたい気がしてきた。周知の通り、かどーか知らんけど、境港には何年か前に水木しげる記念館がオープンし、駅から記念館までの商店街は「水木しげるロード」と名付けられ、さまざまな妖怪のオブジェが屹立しているらしい。たのしそうではないか。

◆キシャ
そんなわけで、降りしきる雨の中、JR境線乗車。境線は、地元では通称「キシャ」と呼ばれている。
やはり町おこしの一環で、境線の各駅には、妖怪の名前がついている。米子駅は「ねずみ男駅」、境港駅は「猫娘駅」という具合。しかし、地元人でそんな呼び方をしている人が一人でもいるとは思えない。

米子駅から境港駅迄は約30分。
乗った電車は、車体全体にねずみ男がペイントされた、「ねずみ男電車」であった。



画像は外装のみだが、内装も、壁面から天井に至るまでねずみ男なのである。ねずみ男に乗って通勤通学とは、沿線住民が羨ましい限り。会社や学校でイヤなことがあっても、電車に乗れば忘れてしまえるね! まあそんなこともないと思うが。嬉しがって、携帯電話付属キャメラをぱしゃぱしゃする。

◆水木しげるロード
しかしキシャが進むにつれ、雨足はますます強くなり、30分後境港到着時には既に篠突くような豪雨。
幸い、水木しげるロードは商店街沿いなので、アーケードで雨をしのぐことができる。
駅を出たところがすぐしげるロードで、ロード沿いに歩くことにする。

境港は、恐ろしいまでに鬼太郎ナイズされていた!
まず早速、駅前に水木しげる像が。
街灯が目玉おやじ。
公園の遊具が妖怪。
交番が「鬼太郎交番」。
お店、公共施設、漁業用倉庫、至る所に水木キャラクタ。

 




水木しげるロード商店街は、妖怪像が等間隔に並んでいるだけでなく、以前には普通の商店街であったのであろう町並みが、無残なまでに鬼太郎に侵食されている光景を見ることができた。
お土産屋さんや観光客向けの店は勿論、昔ながらのお店でも、鬼太郎グッズが売られている。靴屋さんでは下駄がフィーチャーされ、傘屋さんでは唐傘がフィーチャーされていた。いくらかのお店は、オフィシャルな鬼太郎グッズを売るだけでなく、自前の鬼太郎ナイズで客寄せを図っている。店の壁一面に水木キャラクタが立体的に工作されているという、迫真のバッタモノがあるかと思えば、「なんか近所の店みんなキタローやってるしうちもやらんとね」くらいのノリでへなへなと描かれたに違いない、ぜんぜん似てない鬼太郎ポスター(手描き)もあった。
自らも観光都市に育った者としては、こうした町おこしの闇雲な情熱(境港では成功しているが、ときに空回りしがち)が興味深く、そしてまた、その情熱と土着民の脱力的底力とのはざまに生じる、いびつな産物を愛さずにいられない。観光政策がそれぞれの地元民に受容されるさまはどの観光地においても、ときに逞しさを、ときにもののあはれを感じさせる。と思う。

さて、この水木しげるロードの終着点が水木しげる記念館であるわけだが、この日、肝心の記念館は休館日であった! 驚異的な休館日遭遇率を誇るわたしにはたいしたショックではなかったが、記念館の前には、雨の中はるばる来たのに行き先を失ったらしき数人のひとびとが、うろうろと定まらぬ視線で行ったり来たりしており、悲痛であった。

◆港へ
水木しげる記念館を行き過ぎると、未だ鬼太郎ナイズされない、古いままの町並みが現れる。その昭和的町並みを海の方へ抜ける。
鄙びた薬屋の閉ざされた硝子戸の向こうから、佐藤製薬サトちゃんがじっとこちらを見つめている。わたくしとサトちゃんの間は軒からぼたぼたと伝い落ちる雨だれに隔てられている。サトちゃんとの距離の微妙さごときに、一瞬、感傷小旅行的な心持となる。
土砂降りの中を、じゃばじゃば歩きながら、港へ出る。
大雨の所為で海は穏やかでなく、防波堤のこちらがわも既に水浸しである。
海岸通の向かい側は自衛隊駐屯地。フェリー乗り場には年取った女性が二人。「よく降りますなあ」というようなことを、聞きなれぬ方言で話しておられた。停泊している船の脇では、海の男たちが何か相談ごと。





水浸しの中をやはりじゃばじゃば徘徊する。船も、船に付属する用具も、船に付属する用具が収納されているらしき倉庫も、地元人には日常風景であろうが海のない街に住む者にはもの珍しく、雨に打たれながらシャッター切る怪しい人になってしまい、気づくと、長靴履いたおじさんが不審そうにこちらを見ておられた。

◆メシ・フロ
港をうろうろしてのち、駅方面へと引き返す。
雨はますます激しく、最早街全体が海のよう。足元は、足首まで雨水に浸され、水の抵抗を受けながら歩かねばならない。目の前は真っ白で何も見えない。当然ながら既に傘は意味を為さない。着衣のまま頭からシャワー浴びた様な様相で、こんな真っ白な中、港をじゃぶじゃぶひとりで歩いていると、頭がへんになったような気がしてくる。
途中、神社に寄ったら、「大漁」絵馬ばっかりだった。

水の抵抗に逆らいながら歩いたので疲れ果て、駅前で昼食を求める。軒に目玉おやじがぶらさがっているなんとなくよさそうなお店に入り、念願のお蕎麦を注文する。やっと蕎麦に出会うことができた。天ざる。海老がぷりぷりしていた。流石港町である。
ここのお店の人も、独り客にとても親切にしてくだすった。都会では、女独り客は迫害されがちであるというのに。
お店ではやはり海の男ぽい人が数人、雨について談義していた。食事中延々と、BGMとして鬼太郎ソングが流れていた。この街の規則なのだろうか?

駅へ戻ったところで、全然そんなつもりはなかったのだが、目玉おやじ入浴看板にうっかりつられ、駅ビル4階展望風呂に吸い込まれてしまう。
入浴料500円。
それほど広くはなかったが、ほぼ貸切状態で、海をみながらぼんやりと湯船に浸かれたことは有難かった。窓の外の風景は、やはりゆらゆらと白い。泥まみれになった足を洗えたことも有難かった。どうせまた汚れるわけだが。
しかし、何も考えず反射的に入ったため、入浴準備など何もしていなかったことに、入ってから気づく。バスタオルがないので仕方なく、ティッシュで全身の水滴を吸い取るという情けない事態に陥る。

次来ることがあるか分からんが、目玉おやじ欲しさに、目玉おやじスタンプカードを作ってもらって退出。




ちなみに、「男湯」表示はこなきじじい、「女湯」表示は砂かけばばあだった。見上げたこだわりよう。淡路島のいざなぎ/いざなみ表記を思い出す。

◆ふたたび米子
帰りは桃色の「猫娘電車」に揺られ、ふたたび米子方面へ。
米子駅のひとつ前、博労町駅(=コロボックル男駅)で降りてみる。
雨が小降りになった隙に、米子の街を散策することに。
神社と高校の前を通り、県道300に出て、川を二つ越え、181号線。通学路らしき踏切の通りには沢山の紫陽花と自転車の高校生。雨は上がり、おだやかな下校時間。

ところが、二つめの川を越えたあたりで、またも雨に見舞われる。またすぐに上がろうとの期待は外れ、それは次第に激しさを増し、ついにはスコールのような降り方に。
瞬く間に濁流と化した181号線を彷徨い、再び、リビドーに漂着したのだった。



リビドーでひとときの休息である。リビドーのお庭も、「仮初めに急ごしらえされたお池」とでもいうべき様相を呈していた。
体に貼りつく単なる布と化した服を乾かしながら、カシスケーキをいただく。リビドーは、フルーツ×チョコ のコラボが最強。酸味と甘味のバランスが素晴らしいと思うの。
と、のんきな時間も束の間。京都行バスが出るまでに駅に戻らねばならない。健脚人にとってリビドーから駅まではそうたいした距離ではないはずだが、この雨を加味すれば、かなりたいした距離である。
タクシーを呼ぼうかとも考えたが、意地で歩いて戻ることにする。開かずの踏切(通称)も渡りたかったし。

駅までの道は、延々と強いシャワーを浴び続けているような状態であったが、ともすれば沈みそうな心にちいさな安らぎをもたらしてくれたのは、米子の小学生たちであった。
米子の小学生は人懐っこく、道を歩いていると、ふつうに話しかけてくることに驚いた。「すごい雨だねえ」「濡れて気持ち悪いねえ」など。こうした文化――見知らぬ通行人に話しかける文化は京都にはない。東京では、道訊こうとしたら逃げられたというのに。これには大変、心が和んだ。

とりわけ印象的であったのは、次の出来事である。突然、小さな女の子がわたくしを一瞥し、
「あんた、ベッキーじゃない?」
と言い出したのだった。
すると、他の子たちも口々に、
「本当だ。ベッキーでしょう?」
と言いながら群がってくる。
ベッキーとはあのベッキー(註:タレント)であると思われるが、わたくしと彼女は、何一つ似ていない。前髪を切り揃えている点以外は。米子知人の話によれば、米子人は車移動を基本としており、また大学など若者用施設も少ないので、若者、特に女性の一人歩きは珍しいのであるという。ので、子供たちの頭の中では、

 一人で歩いている妙な若い女=エトランゼ=芸能人

という図式になっているのであろうか?

ベッキーとして小学生女子に囲まれるという幸福(災難?)に、やや恐縮する。後で思えば、小学生の夢を守るため、ベッキーであり続けてもよかったのであるが、まっすぐな眼差しをした米子小学生たちを騙すことはできず、自分がベッキーでない旨を説明し、しかしベッキーでないと知れても変わらず明るく接してくれる小学生たちに、遠く京都から参上したところこのような豪雨であった不運を託ち、しかしプールみたいで楽しいねえ、などと喋りながら、しばらく彼女らと一緒に雨の中を歩いた。
やがて女の子たちは次々家に着き、最後は、二年生だという男の子と二人になった。それまで饒舌だったこの男の子は、二人になった途端喋らなくなってしまった。「ムシキングの傘やねかっこいいね」など話を振っても返事はなく、無言のまま知らない雨の街を、知らない子供と歩き続ける時間は永遠に続く、かに思われたがそんなわけもなく、駅の手前で、「ぼくんち、ここ。またね」と帰っていってしまわれた。またね。

駅売店で、知人友人への土産として、妖怪汁とねずみ男汁とめだま親父汁なるものを大量購入(のち、京都でも売られていることを知る)。京都に帰るバスを待つ間、新聞にふと目をやったところで、初めて、この豪雨で山陰各地がすごいことになっていることを知った。


松江では、バスが脱線-横転したという。
京都の母から携帯電話に、土砂崩れを心配するメールが入る。
高速道路を走行中、何箇所か、土砂崩れ跡らしき光景を見た。
京都に到着し、山陰とはまるで違うその蒸し暑さに驚愕&脱力す。

(2006/07)






back