『止まった時計』

『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』



 



麻原彰晃の子供たちが成長して本を書いている。現在刊行されているのは、四女の手記(2010)、三女の手記(2015)。ネット上では揶 揄的に扱う記事も見たが、揶揄するような内容ではないし、「加害者家族」について考えるにあたっても貴重な資料であると思う。
ただ両者の内容には食い違いも多々ある。当頁では(刊行順序とは前後するが)三女・麗華氏、四女・聡香氏の著書をそれぞれ紹介したうえで相違点・共通点を示す。
二女、三女は、ブログやツイッターアカウントでも発言しているが、ネット媒体の情報は全て追うことができていないので、当頁では基本的に書籍から読み取れることのみに言及する。

松本麗華 『止まった時計――麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』講談社、2015.3

本書を手にとるとまず、あの当時マスコミから一方的にカメラを向けられる側でしかなかった小さな彼女が、お化粧をしてじっとこちらを見つめている表紙に感慨を覚える。「安達祐実がかわいいから殺して」(p.10)と言っただの、あることないことを一方的に書き立てられてきた者が、自分の言葉で発信できる能力と機会を得たことは素晴らしいことであると、(むろんその機会を閉ざされたり奪われたりした者の存在を忘れてはならないことは大前提のうえで、)素直に思うた。
本書が刊行されたのは、地下鉄サリン事件から20年目である(注1)。「DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害など、社会で生きることがつらい人が少なからずオウムにはいたのです」(p.37)という一文などは、いま心理学を学んでいるというこの著者だから、また、2010年代であるからこそ出てきた視点であるなと感じた。

前半で描かれる子供時代の思い出は、教団の生活についてのおどろおどろしげな報道を記憶している人であれば、概ね普通の家族の思い出であることに驚くだろう。父が教祖であるという特殊事情や夫婦間・母娘間の葛藤によるストレスも書かれているものの、お父さんが家にいてくれるときの安心感などは、私も子供時代に覚えのある感覚。
サマナのお兄さんお姉さんたちとの交流、ちょっとしたイタズラの思い出の記述。これらには、あの頃傲慢な暴君として報道されていた「麻原三女像」とは何だったのだろうと思い返される。今にして思えば11歳の子供に対し、あれだけの憎悪と敵意を込めた報道がフツーになされていた当時とはいったいなんだったのか。
「彼女の記述が真実で、報道は全てうそだった」というようなことを言いたいわけでなく、仮に如何にわがままな子であったとしても、本来保護の対象であるはずの児童であったのだ。その対象に対して、まるで人間ではなく小鬼か何かであるかのような言い方が普通にまかり通っていた当時は、皆、いかに冷静さを失っていたのか、と改めて。

彼女は事件後、「あの」麻原三女であるという理由で、マスコミに追われ・歩いているだけで通報され・学校教育は受けられず、バイト先の解雇、大学からの入学拒否に遭う。そんな中を子供ながら知恵をしぼり必死に生きてきた様子が綴られている。15歳頃の日記では、テレビで観た「V6」のパフォーマンスに、「ミハーかな? でも、あのおどりはすごかったよ。まじで、ばくてんにばくちゅう、かいきゃくいやーすごかった」(pp.139-140)と感銘が綴られている。アイドルに胸ときめかす普通の少女の一面が見えて微笑ましい一方、同性代の友人がいない中で、頑張っているアイドルに自身の気持ちを託す様子が切実である。

99年6月の「長男連れ去り事件」は覚えているだろうか? 「長女が上の弟と旭村の施設にいたところ、長女と対立していた三女が弟を連れ去った」事件として、オウム報道が下火になった頃に大きく報道され「ああやっぱり変な危ない組織なんだな、変わってないんだな」と私も感じた記憶がある。本書では当事者の側から、些細な出来事が「事件化」されてしまった例として経緯が詳細に書かれている(注2)
これによって彼女は、政治的な思惑によって「事件」が作られてしまうことを知る。こうした中で「闘う前から絶望し、『どうせわたしは三女・アーチャリーだから』と人生に向き合おうとしませんでした」(p.180)という著者が、「あなたが訴訟を起こして認められることはほとんどない。麻原彰晃の子だから。教団と関係があると言われているから。しかし何もしなければ何も変わらない。『そうではない』と言わないと自分の意識も変わらない」(p.193)と言う松井弁護士はじめ周囲の人々の中で、あきらめずに闘う重要性を知り、まさに「エンパワメント」されていく過程が書かれている。その一環として自らをとりまく真実を自分の文章で語ること、それが本書執筆の動機であるという。

本書には、父・麻原彰晃についての記述もある。だが本書での「父」像は、多くの読者が期待するものとは異なっているかもしれない。
逮捕による別れの前夜、父に呼ばれたのに眠くて行かなかったことを後悔し続けているという記述は、もちろん特異な状況であるのだけれど親を思う普遍的なせつなさを感じ、ぜんぜん違うかもしれないが、父・鴎外との誤解を残したままの別れを書いた森茉莉のエッセイ「刺」を思い出してしまった。
父のいなくなった後の教団については、愛着ある父の作った教団を否定しようとする上祐路線への違和感を書いており、教団が彼女にとって枷であると同時に「故郷」(p.165)でもあることが分かる(まあ故郷とはすべて両価的なものなのかもだけど)。
本書での「父」像は、宗教的尊厳をもつと同時に孤独な人物として書かれており、「メロン大好きの俗物」という尊師像とは対極である。

週刊誌ではよく、父は教団内で、教祖であるという地位を利用して酒池肉林のしたい放題の生活を送っていたようなことが書かれていますが、わたしがそばで見た父は質素を好み、自分を律する人でした。(pp.193-4)
弟子たちが皆、何をしても尊師が背負ってくれると依存する中、94年頃になると「誰もグルを愛してくれないからな」、二人きりのときに「もう死のうかな」(p.109)と深刻な様子で呟いていたという様子が書かれている。人は誰も多面性をもつとはいえ、これほど語り手によって評価の極端な人物も珍しいのではないかと思う。元信者や身近な人の書いたものの中でも麻原像は一定しない(酒池肉林イメージを決定づけたのは『麻原おっさん地獄』であろう)。そして語られる本人は、今やもう何も語ることができない。
オウム関連本を読むたび、麻原が本当に盲目なのかどうか、という基本的な点についてすら、身近にいた人の意見が食い違っていることに驚く。(本書では、「35歳で全盲になってしまった」(p.59)とはっきり書かれている。)

本書を読む多くの人が予想するであろう、一連の事件に関する「麻原(父)批判」はない。著者は教団が起こした重く捉えつつも、父本人が未だ語ったわけではない父の関与について、判断を保留している。この点についてネットを見ると批判が多く、たしかに私もそうしたことが書かれているとばかり予想して読んだので肩透かしを食ったような感覚を覚えたのであるが、が、その「予想」がまさに当時の「とにかく麻原を批判しとけばいい」「捕まった人は麻原を悪く言わないといけない」というあの風潮を引きずったものであるのかもしれない。本書が自己(と父)弁護に傾きすぎであるとするレビューもあったが、そもそも一方的な報道に対する名誉回復が執筆意図なのであり、たとえ身内ゆえの甘さがあるとしても、父が詐病とされたまま治療も受けられず真相を語ることのないまま葬られようとしている中、「批判があることも承知していますが、私は、父を信じてあげたい」(p.12)という娘を責めて終わらせていいのか、と思う。

最後に。大学入学拒否事件の話は、大学の似た分野に長くいた人間として、大学というものについて考えさせられた。生い立ちを読めば、こういう人のためにこそ学問(しかも心理学)ってあるのではとさえ思うが、大学が経営上の理由から入学拒否をしないといけないという事実。大学とは、学問の場所とは何なのだろう。ちなみに大学側の懸念に反して、筆者を受け入れたことで入学志望者数が減ることはなかったらしい。


松本聡香 『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか――地下鉄サリン事件から15年目の告白』 徳間書店、2010.4

こちらは四女の著書である。著者名は仮名であるとのこと。
幼少期から事件を経て、オウムから離れようと苦闘した過程、家族との葛藤、医師を志し、江川紹子氏が後見人となるもそこから抜け出す過程が書かれている。
本書を執筆した動機として、ひとつには教団と父がしたことへの謝罪、ひとつには複雑な生い立ちのため連絡も取れなくなった周囲の人へのお礼、ということが挙げられている。

前半は幼少期の思い出が書かれているが、こちらは、麗華氏の著作に現れる父像とはずいぶん違い、「母の手料理を食べたり、贅沢な食事をできるのは父だけでした」(p.74)というように、パブリックイメージに近い尊師像である。
。 父の腕にぶら下がることが好きだったという思い出やシロクマの便箋で父に手紙を書き目の見えない父に読み聞かせた思い出など、暖かな父とのエピソードも描かれるものの、彼女の父像は恐ろしく厳しい父である。彼女にとっては父というより教祖であり、小さな頃から敬語で話しかけていたという。「いつも怖いばかりでなく、優しいこともありましたが、それは父としてではなく教祖としての優しさだったように思います」(p.75)「アメとムチを巧みに使い分けていました」(p.76)。彼女は、ある事件をきっかけに、娘であっても殺されかねないと恐怖を抱く。「私は父が早く捕まって父の恐怖による支配が終わることを心の中で願っていたのかもしれません。それは娘としては薄情だと思いますが、今も父がいないことに、どこかでホッとしている自分がいます」(p.84)。
それでも冒頭の面会のエピソードでは、父に対するアンビヴァレントな思いが窺える。面会室を出ていく父の背中に「大好き!」と叫んで泣いたという記述は胸が詰まる。

父が逮捕されたのは彼女が6歳のとき。以後、父の死刑判決が出る15歳になるまで、父が拘束されている理由も事件のことも知らなかったという。事件を知った彼女は教団と家族に疑問を抱き、そこから離れる道を模索する。

本書は端正な文章で(編集の手も入っているのかもしれないが)きちんと書かれている印象であるが、やや釈然としない個所も残った。
たとえば、教祖が獄中から極秘指示を出しており「信者にだけわかるような暗号を用いて」「接見可能な弁護士を通じて、暗号で細かく伝えられていました。そうして、新しい活動を次々と始めていくのです」(p.53)というくだりなど。また著者は、幹部や教祖さえも把握していないかもしれない「第二オウム」があるという。在家信者や偽装脱会者が思想で日本を支配しようと目論んでいるのであるという。さらに「命の危険を感じるため活字では書けませんし、誰にも他言しないことにしていますが、実際に闇の組織がいくつか私に接触してきたこともありました。おそらく第二オウムでさえ数ある闇の組織のひとつでしかないのだと思います」(p.60)という。
「活字では書けない」というのだからはっきり書かれていないのであるが、一橋文哉本の「オウム事件には黒幕がいる」と匂わせつつ明言せずに終わる書き方と同じ感じを感じ、ほんまやろか?と思ってしまう。オウム事件に多くの暗点・不明点があるのはたしかであるし、まさかと驚くことだらけの事件であったから、何があってもふしぎではないのだろうが……。

最後の章は、教団の幹部たちにまつわる思い出である。この章は生き生きと書かれ獄中からの手紙もいくつか紹介されている。早川紀代秀からの優しい手紙、林泰男のおどけた文体、横山真人から贈られたアロエの鉢、村井秀夫や井上嘉浩のお茶目なエピソード……などなど、当時報道を賑わせた人々の人物像が慕わしく語られており、(当たり前なのであるが)皆ふつうの人間やったんやな、悪い人がいるんやなくて悪いことがあるだけなんやな、という子供のような感想をもってしまった。
「当時の私は中学生でありながら、13人も死刑判決を受けた知り合いがいた」という記述にはっとする。初めて端本悟の面会に行くとき抵抗したが、それは「これから親しくなるかもしれない人が死刑になるのが嫌だという思いが強かったからかもしれません」(p.225)。たしかにまだ幼い子にとって、拘束され近く別れが待っておりそれぞれに重い罪を背負った大人たちとの人間関係しかないということは、どんなに負担で不安定なものであったろうかと思う。



■両書の相違点、共通点

さて、最初に述べた通り両著書には相違点も多い。
麗華氏の著書では、聡香氏の著書については「2006年の家出以降、妹は雑誌や書籍で家族のひどい物語を紡ぎ、語りました。常識のある大人であれば、一方的に信じず、彼女の言葉が真実かどうかだけでも確認しようとしたでしょう。しかし、確認をしようとしてくれた人はほとんどいませんでした」(231頁)とある。
一方で聡香氏は麗華氏の本について、「でたらめ」「私の知っている事実と違う」と述べているという(※FNNの記事によるが元記事はリンクが切れており、カスのようなコメントのついたまとめサイトしか見当たらないのでリンクは貼りません)。
たしかに両者の記述には多々食い違いがある。だがそれが事実レベルの違いなのか視点・解釈レベルの違いなのか判断は難しいし、書かれた時期の違いもあろう。他者から見えたものと当事者の言い分が食い違っていることもあろう(「長男連れ去り事件」や聡香氏の家出についてなど)。両者の大きな相違点についてメモしておく。

・教団と家族の関係について
両者の主張が大きく違うのは、教団が松本家を経済的に援助しているかどうかという点である。
聡香氏は、「悲惨な事件を起こした加害者の身内なのに、事実上、教団から得たお金、つまり信者からの献金で何食わぬ顔で贅沢三昧の暮らしをしていることに、強い憤りを覚えたのです」(p.138)と書き、そのことで家族と溝ができ精神的に不調を来し、これが家族と縁を切る一因であったとする。三女についても、「三女の周囲には今も20人ほどのお付きの信者たちがいますが、その信者たちは松本家に毎月多額の献金をしています。三女はそうした信者たちを100人ほど抱え、世間にばれないように活動していくつもりだったようです」(p.45)と書いている。
だが一方で、麗華氏は教団からの支援を一切否定している。「わたしたちは実際に教団を離れており、アレフに入会もせず、支援も受けず、社会の中で自分の意思をもって生きていました」(p.191)。2007年、産経紙で「オウムや元信者、麻原妻子に年1500万円支援」と報道されたことに対し、アレフから全く金を受け取っていないことを明言し、他にもアルバイトで果たした念願の留学を「教団が費用を出した大名旅行」と『週刊新潮』が報じたことに反論している(この記事に対しては名誉棄損の訴訟を起こし認められた)。また彼女が社会で生きていけるよう世話をしてくれた人が「お付きの人」「信者」というレッテルを貼られ続けたことのやりきれなさも書かれている。実際には教団にかかわっていないのに、アレフ内で流れる文書やメールに母が「アーチャリー」の名を使っており、教団の人々は彼女が裏から指示を出していると考えていたという。

・父の状態について
もうひとつ大きな両者の違いは、父の状態をどう判断しているかである。
聡香氏は、詐病であるとする。確信したのは2007年の面会のとき、父が筆者を認識している態度をとったと感じ「『父はやっぱり詐病だったんだ』と、はっきりと悟ったのです。その少し後にも再び父と面会したのですが、その思いが変わることはありませんでした」(p.39)。
一方、麗華氏は詐病説を否定している。2004年に9年ぶりに会った父とは会話が成立せず、「頼みの父は完全な廃人になっていました」(p.229)(父に会いさえすれば生きる指針が見つかると信じていた彼女はこれにショックを受けうつ状態に陥る)。だが裁判所は、複数の精神科医による鑑定書の中から訴訟能力ありとするもののみを採用した。
さらに麗華氏は、以前から父には明らかに幻覚・幻聴があり、93年頃にはアメリカから毒ガス攻撃を受けていると本気で言っているように見えた(p.65)とも述べている。これはオウム事件を真剣に考えるなら重要な見解なのではないのか? 奇しくも聡香氏も、オウムのフリーメーソン陰謀説について「父自身が妄想の恐怖に取りつかれていた可能性が高い」(p.58)と述べている。

諸々の相違の一方で、二人の著書には共通するところもある。
二人とも、幼い頃から自殺願望を抱く・自傷行為を繰り返すなど、過酷な精神状態に置かれていたことだ。麗華氏は5歳の頃から希死念慮があり、長じてから誰もが死にたいわけではないと知ってショックを受けたそうだ。報道の中の「わがままな王女のようなアーチャリー」像とはずいぶん違う。父の逮捕後、サティアンにあったノコギリや包丁で腕を切りつけ、カッターナイフを持つようになる。「自分は強いんだ! 負けないぞ! 身体を切り刻んでも平気だぞ! と、そういうことを証明しないと生きていられないような衝動に突き動かされ続けたのです」(p.94)。寝るたびに記憶を失い父が逮捕されたことを忘れる、「自分」が消えていくという解離のような症状。これは後まで続いていたらしく、大学入学拒否騒動のことも翌年には忘れてしまっていたという。
聡香氏もまた、事件後の就学拒否事件、学校でのいじめ、出所してきた母との葛藤などから自傷行為・自殺企図を繰り返したという。いじめ対策の話し合いに同席していた校長はこれに対し、「あなた方のお父さんは、たくさんの人を殺しましたね。あなたが死んでも仕方がないでしょう」(p.131)と言ったのだという。

また二人とも、教団を出て触れた「社会」「世間」というものについて奇しくも似た感想をもっている。これを引用して終わることにする。

オウムが正しいとは思いませんでしたが、程度の差はあれ世間でもオウムと同じことが行われていると感じたのです。そして、唯一オウムの方が世間よりましだと思う部分がありました。それは、オウムがわかりやすい悪だということです。(『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか』p.55)
オウムと社会を経験した結果はどうだったのかと問われれば、大差はなかったというのが、正直な感想です。社会はシステムが整備されている分だけ、オウムよりいい、というところでしょうか。いえ、オウムにも多様性が認められたという良い点がありました。やはり、総合的に見て、大差がないというのが結論です。オウムでは「教義ではこれが正しい」という主張があるように、社会では「これが一般常識」というものがありました。それが厳密に共有されているかといえば、されていません。(『止まった時計』p.282)


注1)
この発売日設定は、本書がセンセーショナルに受け取られる一因ではあったと思う。江川紹子氏はその日twitterで、
「麻原三女の手記を、地下鉄サリン事件20周年当日にぶつけて売り込みをかける講談社商法が、あざとすぎる…。せめて、3月20日を避けるくらいの配慮ができないものか…と」(https://twitter.com/amneris84/status/578573021390106624
と述べている。著者には責任のないことではあろうが。

注2)
折しも当時はオウムと公安調査庁が団体規制法の適用の可否をめぐり攻防を繰り広げていた。そんなことは知らず、16歳の筆者は自分の勉強道具をとりに長女と長男のいる旭村の施設へ行ったところ、衣裳ケースの中に長男が詰められており、保護せねばと考える。信者は管轄の警察署へ行き騒ぎになったことを謝罪しそのときは問題なく済んだのに、その数時間後に緊急逮捕され、著者らにも逮捕状が出、この一件は事件化される。これは公安調査庁が観察処分を延長する口実として使われたのではないかとされている。



2016.2記す







資料リストに戻る

TOP