『麻原おっさん地獄』

『麻原はただのオッサンだ』

『麻原地獄の思想』



  



田村智・小松賢壽『麻原おっさん地獄』朝日新聞社、1996.2

覚えておられるだろうか? 作者・田村氏は、強制捜査からまもなく微罪で逮捕され、自分の公判で「麻原はただのオッサン」と発言し、話題になった元信者である。
本書の第一章・第二章は、その田村氏の回想を、彼を自分の寺で受け容れることになりその「マインドコントロール」を解いたという小松氏が筆録したものである。小松氏は、著者紹介(当時)によると「慈照寺」住職でありかつ文学博士ももっているという人である。
タイトルから予想される通り、側近(田村氏は教祖の警護役を務めていた)の目から見た教祖の「俗物ぶり」が次々と暴かれてゆくのだが、その語り口がどことなくヒューモラスで面白いのは、筆録した小松住職の持ち味かも知れない。著者紹介における「恋人募集中」という一文も、あの凶悪事件の関連書籍には相応しくなく、全体になんとなくコミカルさが漂った本である。この本のあまりにもあんまりなタイトルも住職がつけたそうだ。

第一・二章の内容は、
「麻原一家だけは贅沢をして肉や魚を食べていた」
「麻原は実は目が見える」
「カラオケ好きのおっさん」
「ベンツ好きのおっさん」
というようなものであり、これは、あの当時の報道で国民にお馴染みとなっていたパブリックな麻原像でもあろう。
同じ元信者の書いたものでも、たとえば『オウムはなぜ暴走したか。』の未だ麻原の評価に揺れる重い語り口と比較すると興味深い。
映画『A2』でも、信者たちが、教祖は俗物のふりをして信者を試す「マハームドラーの修行」をさせていると語っていたが、そうした信者からみれば、田村氏のような元信者は修行から「下向」した人ということになるのであろう。(映画『A』では、現信者が「何ともねえ……」と呟きながら本書を読んでいるシーンがあった。)

ここでは「本当の麻原像」を問うても仕方ないので、さしあたり本書の記述に沿って興味深い箇所を紹介する。
本書で興味深いのは、教祖の、おそらくたいして意味をもっていないであろう言動(であったと田村氏は後に解する)を信者が教義に合うように解釈してゆく、という場面が多数描かれている点である。
たとえば、ゲーセンで競馬ゲームに興じる麻原に、信者だった田村氏はレースの予言を期待し、カラオケ大会を開くといわれれば、「歌をうまく歌うことはヴィシュッタ・チャクラのエネルギーが高まっている証拠」であると解釈する。ファミレスで麻原が食事をした後、その使用済みの食器、スプーンを舐め「歓喜の絶頂」に至る。
そしてまた、信者達がそうして教祖に心酔する一方での、教祖の信者への冷淡さも描かれている(これも、一人ひとりの信者を思いやり気遣っていたという『オウムはなぜ暴走したか。』の麻原像と対照的である)。厚い信仰から多額の財産を寄付した信者にたいして声をかけるでもなく、全てを寄付してしまえば「無用の長物」であり、田村氏ら身辺警護のものは薬物イニシエーションのモルモットに過ぎない。

食事中に突然の呼び出しを受けたときも、彼は「これで食欲という煩悩が落ちるぞ、麻原教祖がこうして煩悩を落としてくれているんだ」と解釈する。意味のない、不条理な指示について「今にしてみれば、麻原教祖という男はパラノイアとでもいうのでしょうか、一つのことにこだわるのです」と田村氏は振り返っているが、こうした、権威をもったひとりのパラノイアを中心に皆が振り回されるという組織の人間関係を昨今身近で見聞きしたため、個人的にも興味深いところである。
驚かされるのは、(実際に麻原が「ただのおっさん」であるか否かはべつにして)なぜ後で思えば「ただのおっさん」に過ぎないような人物に、人は全てを委ね、それほど心酔することができるのか、ということである。だがこれは宗教に限らず、親子関係や恋愛関係にも起こりうることであろう。実際田村氏も「恋は盲目」という諺を挙げ、教祖への信者の心酔を恋愛に喩えている。
精神分析家・ラカンは、分析において「転移」は、分析家が「全てを知っていると想定される主体」であることで起こると述べたが、オウムにおいて用いられた「それも修行だ」「グルによるマハームドラーの修行だ・観念くずしだ」というロジックはまさに、このことを想起させる。そのロジックが機能するためには、尊師=全知の主体という想定が必要である。

ところでそんなことを考えながら読むと、第三章の小松住職の文章が超絶的に面白い。この章は、住職が如何にして田村氏の「マインド・コントロール」を解いたかという経過の記述に割かれている。田村氏は、裁判で「麻原はただのおっさん」と述べた後もオウムの呪縛から逃れられず、教祖を否定したことで地獄に堕ちる恐怖に囚われていたという。それを小松住職が解きほぐしてゆく過程が書かれているのだが、力動的なサイコセラピーの症例を読むようであり、あらまほしき転移・逆転移の活用もかくや、といった記述である。

「田村君、今日はいよいよ本当のことを言おう。実はね、私はかつて修行したことによって最終解脱者になったんだ(略)」
こう語りながら、
「どうだ田村君、これで君も降参だろう」
と内心わくわくしながら考えていた。
しかし、田村君の反応は冷たかった。
それからまた数日が経った。(略)いつしかその瞳孔は、私に無言でこう訴えていることが手に取るように感じられてきた。
「小松住職、どうか私を救って下さい、私を助けて下さい、小松住職。どうかグルだとおっしゃって下さい。あなたが私のグルになって下されば、私は地獄に落ちないで済むのです、(略)あなたはグルです。ですから、どうぞ、そのことを正直に言って下さい、私はもはや慈照寺しか生きる場所はないのです(略)」
それはまるで恋する乙女のような眼差しだった。好きな女性の気持ちが読めずに、愛を告白すべきか否かと、不安におののく男性を前にして、熱い眼差しでその男性に語りかける乙女のようであった。
私は、とうとう、五十階建てのビルの屋上から飛び降りるような心境で言った。
「田村君、今日こそ本当のことを言おう、私は最終解脱者なのだ。私はずっと最終解脱者なのだ。未来永劫に最終解脱者なのだ」
田村君は、一瞬固唾を飲んだ。次の瞬間、目からうろこがとれたように言った。
「小松住職。あなたは私のグルです。今日から私はあなたを小松尊師と呼ばせて頂きます」
(強調筆者)

小松氏は何も冗談を言ったのでなく、「宗教から救い出すには(世間の論理でなく)別の宗教が必要」という論理からこのような方法をとったのであるが(そもそも、小松氏は、オウムの信者を邪教を信じた愚者として否定しておらず、彼らの高い聖性・宗教性を認めていた)、この緊張感を孕みつつエロティシズムさえ湛えた熱っぽい記述(乙女云々の箇所を見よ!)には、田村氏が描出するサマナに冷淡な麻原像に比して、いわば「逆転移」がある。かつ、それが冷静に観察されてある。

ところで転移というワードをわざわざ出したが、私がずっと気になっているのは、95年当時、このような転移・逆転移関係とでもいうべきものが日本全体を覆っていたことである。あの頃、すべての人が、それこそ、自分こそオウムにとっての「全てを知っている主体」であるかのようにふるまっていたように思う。あれはなんだったのか、ということは今後の課題としたい。

それにしても、本書が、「彼は現在日々刻々と俗世間へと近づきつつある」という記述、そして田村氏が「現世での幸福」を再び重視し始め恋人を求め始めたことを受けて、

「ああ、これで私の仕事は終わった。田村氏のマインドコントロールは完全に解けた。田村君はこれからは私を捨てても生きられる」
という感動的な一文で結ばれるのを見るとき、それが大乗の性質とはいえ、宗教が、「宗教者を世俗に戻す」という役目を果たしている転倒は何なのであろうと考えさせられる。

田村智/絵:甲斐直人『麻原はただのオッサンだ』桜書房、1996.4

こちらは『麻原おっさん地獄』の、田村氏の体験談の部分を漫画化したものである。
漫画を書いている甲斐直人氏は、他に何を描いておられる方なのだろうか? 検索してみたが見つからなかった。
写実的ながらユーモラスな絵柄が、全体にコミカルな印象を与えている。登場人物も全員似ている。「ウッシッシッ」「ゴゴゴ」という漫画独特の擬音表現で、麻原の下劣さが表現されており、これもパブリックな麻原像に沿っていよう。なんともグロテスクな、舌を出した教祖の顔が全面に描かれた表紙も然り。

小松賢壽『麻原地獄の思想』桜書房、1996.4

こちらは小松氏の単著。『麻原おっさん地獄』の第三章を詳しくしたものといってよいだろう。
田村氏との問答を記した章の後に、「脱マインドコントロール」のエピソードが書かれている。それまでの、二人の激しい論争があったからこそ「脱マインドコントロール」は成功したのだとされている。
ここでは「脱マインドコントロール」の手順が、

1. 麻原に代わって「尊師」になる。ただし盲信自体には手をつけない。
2. オウムの教義への狂信を捨てる。小松氏と田村氏が「父と子」のような関係性となる。
3. さらに、「父」なる「私(小松氏)」を必要としなくなる。
というように整理され説明されている。

2014.11記す







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