キエフ








電車に乗って、きみは京都にやってきた。ほんとうに何年ぶりのこと。

4時には、三条の居酒屋で、古くからの女友達数名と集まることになってる。ユウキさんは去年、ケッコンしたのだという。
正直、ユウキさんがケッコンするとは、思わなかった。彼女は――彼「女」という三人称は相応しく無い――「少年」として幼い日のわたしの憧憬の中にいたのであるから。そして今でもわたしと彼女はふたりで会えば、未だ性別のなかった時代――少年時代に戻れるのであるから。

もはや少年でなくなったわたしは、きみの運転で東大路を走り、その、後部座席に座っている。

「親が千葉に住めと言うんだ、千葉の別荘に住めって」
ときみは言う。千葉って海の町じゃないか、と思う。
「なんで?」
「親父が、株売却の相談をそこでしたいって。そういうの好きだから」
きみが笑ったので、わたしも笑っておく。

車は、市場の前を通り過ぎる。子供の頃、母が買い物に行く度についていった市場だ。母と間違えて、知らない女性のスカートの裾をつかんでしばらく離さなかったことがあった。母が慌てて追いかけてきて、恥ずかしい思いをした。2歳の頃のことだ。

「それに、東京は排気ガスもひどいから」
「で、千葉に住むの?」
「住まない」


よかった、と思う。千葉なら、新幹線一本で此処まで来れない。

「千葉は寒いしね、東京は南国だから」
ときみが言う。あれ、千葉って東京より北なんだっけ、知らなかった。
「でも、東京に一番ひかれる理由は、○と○○○○○」
やっぱりそうか、と笑う。○と○○○○○は、きみのアディクションのようなものだ。
「それは重要な要素だね」

区役所の前あたり、赤信号で停車する。
突然自明性を喪失した。
この人はほんとうに実在していたのか、以前に会ったのはほんとうだったのか。
実体のあることを確認しようと衝動的に手を伸ばし、「手、あったかいねえ!」と驚く声で我に返る。手があたたかいと言われ、少しうれしくなった。わたしは、手も身体も冷たいと言われることが多いから。
だけど、今は暖房のせいであたたかくなっているだけだ。

左手に古い街並みが見える。
「こういうの好きなんだよね」
きみが言い、わたしは意外に思う。
「東京にはこういうのがけっこう残ってるんだけど、千葉には全然無い」
東京に残っているというのは妙な話だが、言われてみれば確かに、空襲を受けた地域を除くなら、東京とは思いのほか古いものが残っている町である。それに較べて千葉は、開発してしまい、古くからの町並みはもう見られないのだろう。

「それに、千葉は地価が高いんだよ」
それも意外だ。地価なら、東京の方が高そうなのに。
「地盤沈下で路面が壊れて、補修するたびに、地価上がってんの。考えられないよ」
「地盤は緩んでるのに地価は上がってるの? へんなの」
「そうそう」
「キアフなんか特にそう」
キアフというのは、別荘のある土地の名らしい。どんな漢字を書くんだっけ。貴亜腐だっけ。

「キアフってどんな漢字だっけ。カタカナだよね」

と言ってから、

「それはキエフか」

と自分でつっこみを入れた。きみは何も言わない。内心「つっこんでくれよ」と思う。やっぱり関西人じゃない人は、つっこみとかボケとかの文化が分かってないのだなあ。わたしは、中学生時代の思い出の一コマを思い出していた。

  教室の後ろ、ロッカーにもたれて、彼女はこちらを指差してこう言い放った。
 「人がボケてるのにつっこまないなんて許せない、私は君を批判する」。

きみの運転で、わたしたちは三条駅に着いた。友人らとの待ち合わせまではまだ、15分ほど時間がある。それまで喫茶店かケーキ屋にでも入って落ちつきたい。少々緊張してきたから。
幸いきみも同じことを考えていたらしい。わたしたちは店を探した。ふと、きみはユウキさんだったのではないかと気づく。ユウキさんと二重写しになったきみが、
「昼ごはん食べて行こうよ」
と言う。わたしは抗議する。
「昼ごはんって言ったってもう4時じゃない、次が5時で、その次が6時で、もうすぐ晩御飯だよ!
ユウキさんと二重写しになったきみは、
「晩御飯なんて、深夜3時とかに食べるものやん!」
と言い切ってみせた。めちゃくちゃ言うなあ、と思いつつ、ユウキさんらしくて笑ってしまう。ああ、やっぱりユウキさんは、少年だった頃と変わってない。

他の皆がもう待ってるかもしれないから、と急ぎだしたわたしを止めて、ユウキさんは、「何か理由つけて、遅れたって言ったらいい」などと言う。突然バス乗り場を横切って駆け出したきみの、後を慌てて追った。「見つからないように隠れよう」と言うや否や、工事中の青い幕の中に駆け込む。わたしもそれについて駆け込んだ。幕の中にはエレベータがある。そのボタンをきみが押す。此処は、きみが昔に勤めていた職場だ。だが、あのビルはもうない。すっかり空き地になってしまった。駅近辺の案内図がある。それを見て、ああ此処は、Yさんが勤めていた会社とYさんのお父さんが開業していた歯医者さんの入っていたビルだった、と思い出す。それは、確か夢で見たのだった。ってことは、あれは正夢だったってわけだ。
興奮して、
「YYさんの会社と実家の歯医者さんでしょ、ユメで見たから知ってるの!」
と告げると、にこにこしながら、「へえ、それはすごいね」と誉めてくれた。

友人らのところへ行くのは何時頃になるだろう。二人一緒に遅れていってはおかしいだろうか。一緒に行くのはよくないのだろうか。やっぱり時間をずらして一人ずつ行ったほうがよいのだろうか。
(2005/01)










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