フラワーカンパニーズと私

(長編叙事詩)








Q. フラワーカンパニーズについての思い入れ、思い出の曲、それにまつわるエピソードなど、ホさんとフラカンのヒストリーをお聞かせください。2万字以上でも以下でもいいです。

※以下の文章は、かつてあった「ザ・インタビューズ」というサイトで、上の質問に(必要以上に暑苦しく)応えて書いたものです。「ホさん」というのは私の別名です。



フラカン。彼らの音楽(とそれにまつわる自分のヒストリー)について語るとき、やむをえず暑苦しくなってしまうことをお許しください。以下、長編叙事詩・15年間のフラカン(と私)オデュッセイアを、できるだけ2万字に収まるように語りたいと思います。

▼ 湖岸で「いい事ありそう」の巻

最初にフラワーカンパニーズの存在を知ったのは、雑誌の、見開き2頁の新人紹介記事でした。紹介文とそこに引用されていた若干の歌詞が、私の興味を惹きました。しかし、その隣頁のアーティスト写真は今でもよく記憶しています。悪い意味で。

まず目を惹いたのは、おそらくヴォーカルと思われる茶髪の青年。お猿さんか小学生男子のようなポーズでキメている彼は、一昔前のバンドブームにこういう調子ノった奴おったよなぁ、という時代遅れ感に満ちていました。恰好も、中途半端に派手。その背後には年齢不詳の、魁偉な風貌のオーバーオールの男が聳えています。こちらは、一昔前というかふた昔も三昔も前から抜け出てきたような風情。胡散臭さ満点のこの二人の横には、あまり印象に残らない男二人が立っていました。
この写真による第一印象は「イタくて冴えないB級バンド」でした。
というか、この写真を見て「このバンドはこの先色々ありつつも『生きててよかったそんな夜を探してる』と歌う名曲で人々の心を掴み20年以上活躍し続けるに違いない!」と見抜ける人は皆無であろうと思われます。
どう見てもカッコイイ音を出しそうなバンドには見えない! 私は記事と写真を見比べ、「気になる……しかしなぁ……」と呟いたのでした(呟いてないけど)。


今思えば、時代は90年代、「渋谷系」がオサレシーンを席捲しつつある頃でした。またそれまで日本のロックの人といえば、どこかダサかったり泥臭かったり 子供心にもちょっとイタかったりしたものですが、この頃から、デビュー時からもう洗練されててセンスが良くてスマートな人たちが出てきたなあ、 という印象があります。そんな中、写真の彼らの垢抜けなさときたら。


この「気になる……しかしなぁ……」の時期は、約二年続きます。
その間、ヴォーカルの鈴木けいすけ(現・圭介。当時はひらがな表記だった)が雑誌に連載していたエッセイは愛読していました。主に「俺は背が小さく器も小さい」とか 「俺は彼女の家で寝小便した男だ」とか「誰も俺を誉めてくれない」とかそんなことが延々と書かれていました。気になる度は昂まる一方であったのですが、当時は気軽に試聴できるyoutubeのような便利なものもなく、かといって金のない高校生は、気に入るかどうかも分からないCDにいきなり3000円も払えません。
そんな或る日、新聞の折込広告に大津パルコのチラシを見つけます。セール情報の片隅に「フラワーカンパニーズ、キャンペーンミニライブ(無料)」という文字がありました。大津パルコは、京都から少し離れた膳所という駅にあり、膳所は大きな街ではないのですが、琵琶湖に面した穏やかな雰囲気が気に入っていて たまに散歩に行くスポットでした。そこで気になるバンドのミニライブ(無料)がある、これは良い機会、というわけで、秋の日の日曜日、私は膳所へ出かけたのでした。
1997年のことでした。

パルコの入口に着くと、微妙な大きさのステージが設置され、微妙な人数の人々が集っていました。元気そうな若い女の子ばかりで意外に感じたのを覚えています。あんなバンドのファンというのはきっと冴えない男の人が多いのだろう、と思い込んでいたのでした。私は当時浪人生だったので、世界史の教科書を読みながら、開演を待っていました。
登場したフラワーカンパニーズは、ロックスター然としたオーラはまるでなく、喋りが予想以上に芸人チックでした。けいすけが喋り、それにベースのグレートマエカワがつっこむという進行でした(つまり今のMCと同じ)。けいすけは、だいたいエッセイそのままのキャラクターで、「パルコの客は誰も俺たちのこと知らないだろう!」とキレてみせたり「琵琶湖からの潮風が気持ちいいね!」とはしゃいだりしていました。琵琶湖は海水ではありません。

そんなぐだぐだしたトークが長々と続いた後、三曲が演奏されました。まず、当時新曲だった「ヒコーキ雲」とカップリング曲「遠くへ」。先ほどまでのぐだぐだトークは何処へやら、「ええやん!」と思いました。そして当時未発表曲だった「いい事ありそう」。この一曲で、モウ一発で、早くもフラカンは私の中で殿堂入りしてしまったのでした。


「いい事ありそう」はメンバーが順繰りにワンコーラスずつヴォーカルを取る、フォーク調の曲です。近所のババアに挨拶されたけど無視された、でも「♪今日は何かいい事ありそうな気がするする」という詞で始まり、彼女にふられた、友達が殺された、と次第に不幸はエスカレート、最後は「爆弾で地球がふっとんだ」でも「♪今日は何かいい事ありそうな気がする」で終わる、という、まあそれ自体はありがちといえばありがちな歌なのですが、
「男らしく笑顔で殺した♪」
なアんて歌う声が、閑静な住宅街の中のショッピングセンターに響いたときの痛快さ! そう、この痛快さが、私が彼らに惹かれたいちばんの理由だったのです。


追記)この日の日記を振り返ってみましたらば「私はもうナチュラルビューティーな女になって若いうちに結婚するとかいう志向は捨て去る!フラカンを見てそう決意した!」と書かれていました。なんかよくわかりませんがとりあえずものすごい感銘を受けたようです。でも何もそんなこと決意しなくても……。ていうか そんな志向が自分にあったことが驚きである。

▼ 独りで「火花を散らすぜぇ!」の日々の巻

  君らは無機物だ 水のように流されて
  下へ下へ下るだけ ところが俺は水中火
  (「アイ・アム・バーニング」)

その週のうちに私はベストアルバム『ヤングフラワーズ』を買いに走り、毎日狂ったかのようにそれを聴き続けました(フラカンは売れてもいないのにやたらベストアルバムを出しているのです)。
自宅で浪人していたので、好きな音楽について話し合うような友人もおらず、ひたすら自分の中だけで盛り上がり、「ああ欲望が渦巻くような刺戟はないに等し い♪」と歌いながら受験勉強をし、年賀状を書きながら、紙粘土(注:当時の趣味)をこねながら、「君の肌をひんむいて/骨を触ったりすり合わせたいのに」と凶暴な気持ちが迸る「ライトを消して走れ」、けいすけ自ら「頑張れ圭介!」と叫ぶ「孤高の英雄」、「相手がいるなら犬でもいい」という身も蓋もなしラブソング「恋をしましょう」、「頭の中ハタチのまま!」と歌う「俺たちハタチ族」etc、昼夜延々とリピートしました。

フラカンの音楽の魅力は、当時は上手く言い表せなかったのですが、B級的なばかばかしさと、王道なかっこよさの融合でありましょう。あまり言われませんが、フラカンは最初からかなりかっこいい王道ロックなのです。かつ、粘着質なギターであったり、サイケデリックにうねるベースであったり、渋いサイケっぽい成分がかなり含有されてもいます。それと、やけっぱちで破壊的なパンク成分の融合。
だがそれだけなら私はそんなに彼らに惹かれたかどうか。彼らの特異性は、そこに加味されたドメスティックな成分にあります。当初音楽の趣味がばらばらで あったメンバー一同は、「エレカシとURCが好き」という一点で趣味が一致したというエピソードがあるのですが、まさにURC的な湿度やアングラ感、田舎っぽさや垢抜けなさ、それが彼らの音楽に、屈折した魅力を与えていました(「プラスチックにしてくれ」でのカウントが「ワンツースリーフォー」でなく 「ひーふーみーよ」であったりも衝撃でした)。

その屈折した魅力を担っているのが、鈴木けいすけの書く詞でした。かつて本人が「フラカンは俺の歌と歌詞が乗ってなければ売れるんだ!」と言っていた記憶がありますが、たしかにそうかも……。
しかし私は、あの音にあの歌、あの詞が乗っていなければ、フラカンを聴くことは無かったでしょう。
フラカンの詞のキーワード、それは卑屈と傲慢。そう、思春期の黄金コンボです。
けいすけが歌うのは、ダメでいけてない情けない自分。それも、ロック的にむしろ推奨されるダメさというものがあったとして(破滅的で退廃的でヴィシャスなダメさ)、そうではなく、ただひたすらしょぼいダメさ。誰といたって気を遣う、迷ってばかり晩御飯も選べねえ、俺にさわるな鬱が染るから。それは、私が思春期以来ずっと感じていた卑小さでした。自分には何も確固たるものがない。勉強も運動もできないし上手く振舞えないけど完全なはみだし者にもなれん。ドブネズミのような美しさもなく、のび太にすらなれないダメ加減。だがその「ダメだあああ!」がなぜか突然逆流して「いや俺は特別なのかもしれないいい!」となるのも、まさに自分の中学生時代の日記そのままでありました。「ダイヤモンドは俺一人だけ/残りはみんなただの石ころ」。そしてそんな、本来なら引き出しの奥に秘められてあるべき中学生日記ソングが、よく響く甲高い声で歌われ、カッコイイ音で鳴らされ、皆を躍らせているとは、痛快!

そう、私がフラカンに感じた痛快さは、何やらリヴェンジの痛快さに似た痛快さでした。日の当たらない者が「俺はかっこ悪いんだああ!」とバカみたいに叫び続けることでどうしようもなくかっこよく見えて見る者の胸を刺す、という。


▼ 友人「くるったバナナ」にドン引きの巻

  くるったバナナ 俺は暴力の機械
  好きとかどうとか そんなもんどうでもいい
 (「くるったバナナ」)

翌年の春、アルバム『マンモスフラワー』が出ます。それまでのいじけた曲とは少し違い、それまでよりも少し優しくて少し勇ましい面を前面に出したアルバムでした。「ダイヤモンドは俺一人だけ」と歌っていたけいすけが、「俺も最高お前も最高」と歌うのはこれまたなかなか痛快でした。
レコード屋に行くとPVが流れていたり広告を見かけたり、彼らがプッシュされているのが分かりました。

私はその春に大学生になり、少し話の合う友人ができました。
A太郎(仮名)という彼は、裕福な家庭に育ったエリートなのにひどく卑屈で、いつも優秀な同級生に対する劣等感をこぼし、我々は「卑屈」という一点において話が合ったのでした。A太郎は、奥田民生のような脱力系ロックや昔のフォークが好きなようでした。
そんな彼がある日「フラカンってちょっと気になるんだけど」と言ってきたので、私はよし来た!とばかりに意気込んでCDを貸し付けました。ミニアルバム『恋をしましょう』でした。
一週間後、CDを返しにきたA太郎に「どうやった?」とわくわくしながら尋ねると、彼の答えは、「ホちゃんはこれを聴いてノッたり一緒に歌ったりすんの? ……正直、引くわ……」 というものでありました。こんなにかっこいい名盤だのに、何故…!? と当時は不思議に思ったものでありますが、考えれてみればたしかに、自分が18歳の男の子だとして、同級生の女の子が「♪短小、包茎、ひらく夢もなし」だの「♪おつゆでいっぱいの中 顔面つっこんでゴー」だのと歌うCDを薦めてきたら、何のイヤガラセかと思うよな……。


今思えば『マンモスフラワー』もベスト盤もあったのに、何故よりによってコレを貸してしまったのか……。しかし私は当時、このアルバムがフラカンの最高傑作であると思っていたのです(今でも大好きです)。
A太郎が特にヒいたという「くるったバナナ」は、今でもフェイバリット曲のひとつです。タイトルから想像はつくかと思われますが、一連の「リビドーくすぶりソング」(と勝手に呼んでいる)の類です。当時まだ非モテだの性春だのという言葉はありませんでしたが、フラカンの歌うリビドーソングは私にとっての彼らの魅力のひとつでした。男の身勝手な、暴力的な、性欲の歌。バナナとは明らかに明らかな男性器の比喩であるが、だけどそれはまるで去勢されたそれであって、去勢されたバナナをくるくる振り回す男は、最高にキュートであるのです。

A太郎とはその後疎遠になってしまったのですが(注:べつにフラカンのせいではない)、秋が終わる頃、「俺、冬の匂いってなんか好きなんだよね、あんま分かってもらえないんだけど」 と言っていたことを時々思い出します。雑談の中のなんてことない一言だったのですが、「あっ!」と思ったのでした。そのときタイミングを逸して言えなかっ たのですが、「フラカンに『冬のにおい』って曲があるんだよ!」と教えてやればよかったなあ、と今でもたまに思います。

▼ 「夢の列車」に強制乗車の巻

さて、同じ春、初めてライブに行きました。大阪バナナホール。実はこれが、自分でチケットをとっていった初めてのライブです。(ちなみに連れていかれた初めてのライブは加藤登紀子。) 梅田に行くのは初めてだったので、高層ビルにくらくらしたことを覚えています。どんだけ田舎者なんだ。

ライブ全体の記憶はもうあんまり無いのですが、何と言っても特筆すべきは中盤で演奏された「夢の列車」でした。この衝撃だけは、今でも忘れることができません。セカンド(今ではマイ・フェイバリット・アルバム)を持っていなかったため、この曲はこのライブで初めて聴いたのでした。

シタールのような音で始まるブルージーなイントロ。ひとつずつ楽器が重なり、ハープの音が次第に鳴りわめく汽笛のように凶暴な音になってゆく。マエカワのヴォーカルに割り込んで、切り裂くようなけいすけの甲高い声。長いギターソロの後、白いライトの中、けいすけが観客を眺め渡しながら優しい声で 「さあさ皆さん、おつかれさま、長い旅は終わりました」と歌い出した次の瞬間息が止まったようになったのを覚えています。

♪ ここにいるのは 今の毎日 夢も希望もない方々
♪ どうぞ周りをご覧なれ
♪ 魚目のバカヅラだ

そのくだりを聴いたとき、満員のライブハウスの中でたった一人指差されたような気持ちで、私は立っていたのでした。これはあたしのことだ! 夢も希望もなくて、でものうのうと生きていてここでこんな音楽を聴きにきて踊ってるあたしのことだ! 後に彼らは「ロックンロールに囚われちゃったら死ぬまで自由になれない」と歌うのでありますが、まさにその「囚われ」が、このとき起きたのでした。つまり、「自分は此処だ!」と思ったのでした。

このとき私は諸々周囲の変化を感じていた時期でありました。それまで自他ともにクズという認識で生きてきたのが大学に入って人並みに扱ってもらえることが増えたり、男の子から女の子扱いされるようになったり。もしや自分はもう中学生のときの自分とは違うのでは?という勘違いを始めそうな時期でありました。 しかしこのとき、あたしはここなんだ!とはっきり思ったことを覚えています。これからどうなっても、良くなっても悪くなってもあたしの位置はここから一歩も変わらないのだ。いけてない中学生のままなのだ。いけてないまま踊るのだ。
いつまでもダメでいびつな自分を抱えて音楽に癒しを求めたり傷つけられたりしてやっていく、それはダサくて古いあり方なのかもしれない。でもそれにしがみつかなくてはやっていけない人がいるらしい。 そーだもっと踊らせろ!

なおこの日、アンコールはバナナホールにちなんで「くるったバナナ」。頭上をバナナが乱れ飛び、それまで隣で腕組みをしてクールに観ていた男子が暴れ始め、「今からすぐ燃やしにいく♪」と満面の笑みで合唱していました。良いライブでした。

▼ 大阪球場に「雨よ降れ」! の巻

その年の夏には、大阪球場でのライブを観ました。暑い晴れた日でした。
弱小バンドだったはずのフラカンが、スタジアムでワンマン・ライブ……! 凄い! 世の中こんな逆転ホームランがあるんだなあ……と感慨に耽りつつ会場に着いたらば、大阪球場は閉鎖寸前だけあってボロボロの設備、ひどいさびれっぷり! そして、スタジアムライブとは名ばかりの、広い球場のほんの一角を区切っただけの会場! おいっ!! と拍子抜けつつにやにやしてしまったのを覚えています。
選曲も、初の野外ワンマンであるのに「雨よ降れ」で幕を開け、球場にちなんで「ああ今日も空振り」、新曲「トラッシュ」で「俺の影は今もう薄くない!」と叫んだ後、昔の曲「薄い影」が演奏されるなど、彼ららしい捻くれた選曲に終始にやにやさせられました。
会場はやはり若いお洒落な女の子が多くて、でもそんな人々が大人数で「空振り♪空振り♪」などとどうしようもない曲を合唱してるのって、なんだこれ、何現象だ? と思ったものです。

いけてないまんまでスタジアム(取り壊し寸前とはいえ)まで来て、いけてないまんまこれだけの人々(そこまで多くないけど)を躍らせる、このバンドはこれから一体どんなふうになっていくのだろう? そしてあたしは何処へ行くのだろう? ラストの「虹の雨あがり」で「♪いつまでもそうどこまでもそう/これからもきっとそうさ/上手くいくこともあって上手く行かないことはないのさ」と繰り返し歌われるのを聴きながら私は思うたのでした。これまでも上手く行かないことは沢山あったしこれからも上手く行かないことだらけだろう。でもきっとこれから彼らは、いけてないまま転がりつづけながらも、かっこいいロックバンドに成長していくのであろうな。


ところがフラカンはこの後、迷走し始めます。

▼ 「29」の孤独の巻

翌年、アルバム『Prunes & Custard』が出ます。このアルバムは、それまでのアルバムとは違う感触でした。それまでのようなコミカルな部分が鳴りを潜め、B級好きの私としては、カッコイイけれど少しよそよそしいアルバムに感じられました。内ジャケのメンバー写真もなんだかかっこつけていて、「えっ、そっちに行っちゃうの?」 と思ったのでした。当時、音楽雑誌などで「本格派ロック=男のロック!」みたいな語られ方がよくされており(対象は主にミッシェルなど)、私はどうもその語り方が気に入らなかったのですが、フラカンもそっちに行こうとしてるのかなあ、とどうもこのアルバムにはそれまでほどの愛おしさが沸かずでした。
アルバム発売後、大阪厚生年金会館でのライブに行きました。フラカンをホールで見るのは初めてでした。ダフ屋がいて驚きました。しかし、ホール内はなんだか閑散としていました。
この日のライブで最も覚えているのは、「29」です。特別好きな曲ではなく、今でもどちらかというと苦手な曲なのですが、「冠をかぶって/慰めていたんだ /その場しのぎだって/認めなくちゃだめだ」ということばがびしびしとリアルに刺さったのでした。そして、広いステージのまんなかで歌うけいすけ君が、バンドで歌っているにも関わらずひどく孤独でひとりぽっちに見えました。背筋の伸びるような、しかしどこかぴりぴりとした寂しい気持ちのままで、この日は帰ったのを覚えています。

彼らはこの頃30歳、私はハタチになった頃でした。

追記)この日の日記を今見ると、「楽しいライブだった」とも書いているので楽しくもあったのでしょう。しかしその後記憶にあるのは、寂しくぴりぴりした気持ちだけなのです。


▼ 幸せor絶望! の巻

  やりたいことを やるだけなのに
  なんでこんなに ボロボロなんだ (「真っ赤な太陽」)

  生まれてこのかた本当に最低 歌にもなりゃしねえ
  いっそのこと頭を吹き飛ばしたいけどどうにもならないね (「幸せまっしぐら」)

その翌年にはアルバム『怒りのBONGO』が出ますが、これは唯一買わずにレンタルで済ませたアルバムです。まず、ヴォーカルと楽器のバランスなど、それまでと音が全然違うことに戸惑いました。それまでどのアルバムにも入っていたフォーク調のほのぼのした曲は一切なく、轟音。 トランペットも鳴ってる。曲タイトルは急に英語に。「♪洟垂れの坊やたちと同じ目をしてたはず」とか歌ってたけいすけに、急に「METAL APE」とか言われてもどうすればいいんだ。ってかなんだよ METAL APE って。
(このアルバムを買い直し、「わああっ、こんなかっこええアルバムやったんか!!」と思うのは、この10年後のことになります。当時分からんかった自分が悔しい! METAL APE の曲「NO BLOOD MAN」は今ではiphoneヘビロテ、特にヴォーカルのキレキレぶりがカッコイイ!! 聴いてくれ!)

そして、このアルバムを最後に、彼らはメジャーから姿を消すことになります。

この頃はなんだかんだ言いつつもよくライブに行っていた時期なのですが、急にチケットが取りやすくなりました。この間までホールライブをしていたはずのフラカンは、ライブハウスに戻ってきました。客は目に見えて減り、磔磔の前三列ほどしか埋まっていなかったときも。磔磔の前まで自転車で行けました(注:満員御礼の日は駐輪禁止になる)。 物販は手売りになり、CDは自主制作盤になりました。当時は何が起こっているのかよく分からず、「ライブハウスの前にチャリ停められるしええわあ」くらいにしか思っていなかったのですが、要するに彼らはライブハウスから大きな会場へ進出してゆく過程でコケてしまったのでした。

「少年」を歌った後、圭介(この頃漢字表記になったはず)が「実は結婚して子供が生まれました、今のは子供を思って作った歌です」と報告、客が驚きつつも ほのぼのと祝福ムードになったかと思いきや、「でも離婚した! 子供に会えない! メジャーの契約も切られてCDが出せない! さんざんだ!」と絶叫した後「真っ赤な太陽」が演奏される、という衝撃ライブを観たのもこの頃です。

とはいえこのライブは最高でした。終演後すぐに物販で、自主制作盤「真っ赤な太陽」を買いに走りました。赤一色にタイトルだけという、素人作成のCD-Rのようなジャケでした。
そのカップリング曲だった「幸せまっしぐら」もこの日初めて聴いたはずです。当初は「絶望一直線」というタイトルだったのがメンバーの「あまりに暗すぎる」という意見を容れ、じゃあ、ってことで「幸せまっしぐら」にタイトル変更されたというあまりにもあんまりな逸話をもつこの曲。「♪幸せまで続く道、 まっしぐらに歩いていこう」というサビが、ライブでは元の詞のまま歌われていました。眉毛を剃り落とした圭介が眼を剥いて、
「♪絶望まで続く道、まっしぐらに歩いていこう」
と歌ったのは、今でも忘れられない鬼気迫る光景です。

この時代は「フラカン暗黒時代」と呼ばれている(?)ようですが、音楽的には全く暗黒どころでなく、自主レーベルから出たアルバム『吐きたくなるほど愛されたい』は、血の味のするような名盤です。
『怒りのBONGO』を経てパワーアップした音でありつつも、かつてのフラカンらしいやけっぱちな面やフォーキーな曲もあり。でも、以前のいじけとはまた違った痛みに満ちている。竹安氏のギターを明確に「イイ!!」と思うようになったのもこの頃からです。私は楽器の奏法がどうとかいうことについては全然詳しくないので、「なんかうねうね粘着質でカッコイイけど情念がこもった感じ!」とかイメージ的なことしか言えぬのが残念なのですが、彼のそもそものそうした性質がこの頃の曲に合っていたのかもしれません。「真っ赤な太陽」の胸に迫るよなギターソロ、ご機嫌な曲調を無駄に歪ませてくれる「幸せまっしぐら」のイントロは、フラカンで最も好きかもしれません。
ジャケ内側には、楽屋らしきところで笑い合う四人の写真が収められており、バンドがなごやかな良い状態であったことが分かります。

「雨よ降れ」の「♪嘘でもまやかしでも君を愛している」という部分が、「嘘じゃないまやかしじゃない」と歌詞を変えて歌われたのもこの頃でした。

▼ 復活の日(私が)の巻

この後、フラカンは徐々に勢いを盛り返し、若い客や男性客も増えてきたようです。ようです、というのは私がライブに行かなくなってしまったからです。(特に理由はないのですが、当時やや恒常的軽鬱期であったためその状態で「真っ赤な太陽」や「セロハン」のような曲を聴くのはチョイしんどい、ということもありました。) なので、盛り返してきた頃のフラカンを観ていないのです。
(これはもしや「俺が応援しなかったら阪神が勝つ」とかそういう類のやつなのでしょうか?)
音源は聴いており、「深夜高速」がやたら色んなところで取り上げられているらしい、ということも知ってはいました。またこの頃から、かつてのような「キワモノB級バンド」としてでなく、「地味だが凄い本格ロックバンドがいるぞ!」という文脈でフラワーカンパニーズの名を耳にすることも増えました。

やがて、2008年、彼らはメジャーに返り咲きます。
メジャー復帰作は、いまいち好きになれずでした。
悪くはないのだが、少し落ち着きすぎているようなしんみりしすぎているような気がして。ライブに行こう!とは思えませんでした。
そして久々に復活する(私が)きっかけとなったのが、2010年に出た『チェスト!チェスト!チェスト!』でした。前半は「いい曲だけどまたこのパタンか」と思ったのでしたが、「日々のあぶく」で「これは…イイ!」となり、畳みかけるような「切符」「チェスト!」と来て最後の曲を聴き終わるときには笑いが止まらず! ここ最近のしんみりした良さがありつつも、かつて私が彼らを好きだったゆえんであるところのばかばかしさ、痛快さ、そういったものが炸裂していたのでした。
久々にライブで観てみたい!と思っているところへ、昔の友人が「チケット余ってるんやけど」と誘ってくれ、そして実に約10年ぶりに、磔磔でフラカンを見、今に至ります。昔のノリで磔磔までチャリで行ったら、なんと駐輪禁止! これは……と中を覗くと、会場は老若男女の客で埋まっていたのでした。

10年ぶりに見る彼らはしょーもない喋りやなんかも含めて全然変わっておらず(生え際の後退は除く)、お久しぶり!とでも言いたくなるような気安さでした。でも演奏は昔より更にかっこよくなってた。バンドの円熟なのか私の耳がよくなったのか分かりませんが。そして、「若くはないけど、若いときにはなかった知恵や余裕を少しは持ってるぜ」って感じの今の彼らはなかなかいい感じだった。今のフラカンは、年をとるのもなかなかいいね、と思わせてくれるところがとてもいい。

特に磔磔の後なんばHatchで聴いた「夜明け」。以前に聴いたのは、あの厚生年金会館でした。そのときは、明るい曲であるにも関わらずぴりぴりとした不安げな曲に聞こえたのでした。しかし、今年聴いた「夜明け」は本当に夜が明けていくような、本当に気持ちの良い演奏でした。メンバー四人が輪になって演奏するいつまでも続くかのようなアウトロ。突然泣き声みたいにギターの音が一音ずつ上がってゆき、心臓の弁をこじ開けられたかのように、滂沱。

余談ですが昔は「ベースを弾く化物」と呼ばれていたグレートマエカワが平均よりかっこいいおじさんになっていたことにも衝撃を受けました。30代になった私にとって、希望の星です。

▼ そして再び「夢の列車」

  夢の楽園、夢の毎日、夢の安らぎ
  夢の明日 夢の未来 夢のまた夢夢夢 (「夢の列車」)

先日、13年ぶりという彼らのホールライブに行きました。私にとってもあの厚生年金会館ぶりのホールであります。勿論でかいところでやることばかりが尊いわけじゃありませんが、しかし、一度コケたホール公演を、一回り年をとった彼らがリヴェンジ、というのはなかなか泣かせます。そういえば最初にフラカンに感じたのは、リヴェンジに似た痛快さ、であったことよなあ、と思い出しました。
ライブはといえば、すごくよかった。かつてはだだっ広い荒野のように見えたホールのステージを、今度は所狭しと動き回り、緊張感ありつつも終始なごやかな雰囲気。新旧さまざまな曲、歴代思い出の曲が演奏され、古い曲はどれも、その頃のままの良さにその頃にはなかった良さが加わって、またもいちいち涙。

とりわけ驚いたのは「夢の列車」。聴けると思っていなかったので、イントロが始まった瞬間はここ数年で最も昂奮しました! この曲、年をとった今の彼らが演奏してもリアリティがないからもうあんまり演らないのかな、と思っていたのですが、そんなことはまるで無かった。演奏は迫力を増していたし以前よりショーとして洗練されてはいたけれど、しかし変わらず辿りつくことのない夢のまた夢を求めて夢の列車は走り続けているのであった。 青春ごっこを今も続けながら旅の途中なのであった。で、ああ、この人たちはずっと同じ事を歌いつづけているのであるなあ!と思うと同時に、かつて自分がバナナホールで「自分はいつまでも此処だ!」と強く感じたことを思い出したのでした。
フラカンはよく、自分たちのバンドをファンにとっての「実家」だよ、という言い方をするのですが、そうか、こういうことだったのか!

私はバンドの解散には余りショックを受けないタイプの人間なのですが、フラカンが解散するとか言い出したら吃驚するだろうなあ。寂しいだろうなあ。どうか健康でずっと続けて欲しい。と、10代のときは思わなかったことを思ったりしています。

終演後、ホールには「虹の雨あがり」が流れていました。98年、大阪球場でラストに聴いた曲でした。「うまくいくこともあって、うまくいかないことはないのさ」と歌われるのを聴きながら、このバンドはどうなっていくんだろうなあ、あたしはどうなるのだろうなあ、と考えていたことを思い出しました。そして、 これからも、何度も上手く行かないことがあるであろう、でかい鬱もくるであろう、と、大阪球場で考えたのと同じことを考えました。シワも増えるしがらみも増えてくる。ホールから出ると、開演前降っていた雨が本当に上がっていたのでした。

(第1回 完・続篇は10年後に予定)


(2012年10月)





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