書くこと、或いは絶望投壜通信





文体の病気も著しい今日此の頃でありますが如何お過ごしでいらッしゃいますでしょうか、とかなんとか云う書き出しも懐かしい今日此の頃であるが、あれはメキシコでの第1回飲み会であったか。
「論文の書き方」について後輩に話すうちに、どういう文脈だったか先輩N氏が、
「男の子には、ラブレターとして書くタイプと、自己愛的な回路で書くタイプと、二種類あるよね」
と仰った。
成る程言われてみればそんな気もする。
では、女性の場合はどうですか?と問うてみると、
「女性の書くものは全部、自分という謎について書かれているんじゃない?」
とN氏。
成る程言われてみればそんな気もする。
して、わたくしはそもそも「女性」であるのか?



かつて、作家・倉橋由美子は書きました。「書く」女は女ではない、女の化け物だ、いわば第三の性だ。
彼女の小説「妖女のように」の主人公である28歳の女小説家は、かつて愛した、死んだ男からもぎとった腕で小説を書く。(映画『リンダリンダリンダ』のあの場面――少女が、別れた彼氏から、ギターを弾くための腕を貰う場面――のようにね。で、少女は、そうして奪った腕で以て、「僕」一人称の歌を歌うのだった、「僕の右手を知りませんか?」。)


「おじさま。女って、うつくしいものでしょう。いつかそうおっしゃった。ところで、女は男に愛されてはじめてそのうつくしさが絶対の貨幣となる。ただひとりの男に愛されればいいの。ほんとうに女らしい女は、ひとりの男のなかに、全世界をとらえた自分のうつくしさをたしかめながら生きる。その生きるということのなかみは、すべてを奪われること。捧げること。これが女の愛しかたでしょう?」
「それがわかっていて、しかしきみにはそういうことはできないというのだろう」
「あたしはおじさまにはなんでもさしあげました。どんなにいっしょうけんめいおじさまのものになろうとして毎日を生きていたか、おじさまはごぞんじだったかしら。おじさまだけを愛しました。そして、それで、あたしの愛は終りです。もう男のひとを愛することができない女になりました。女ではなくなりました。そのときから、あたしの虧けおちた女の部分に第三の眼がひらいて、第三の腕が生えて、書きはじめたようにおもいます」
(倉橋由美子『妖女のように』新潮文庫、64-5頁)



この21世紀初頭に読めばなんだか演歌のようであるなあと感じないでもないけれど、このくだりを読むたび、やはり涙せずにはおれぬ何かがあるのは、「書く」ことにまつわる充実と味気なさの両方が、此処に不足なく表されていると感じるからだろう。「書いて」いるときの、自分は生き物の雌として何か非常に不自然なことをしているのではないかというような感覚を、この台詞は言い当てている。(とは云え為念すべての女性がその感覚を有している筈であるとかまたその感覚が生物学的・遺伝子学的・脳科学的に「自然」なものであるとか主張するわけではないけれども。) その不自然は何の故なのか。「愛」によって・「異性」によって・性的資源としての自らを貨幣や婚姻の契約その他と交換してもらうことによって・もしくは妊娠や出産によって埋めるべき(とされている)喪失を、文字という無機質で埋めているように感じられるからか。
「書く」女は自然の女ではない、成る程言われてみればそんな気もする、それが、ほらアレ、「女のエクリチュールは無い」ということなんですか。去ってゆく列車見送るプラットフォーム、喪失感の只中で、何故君は電話かけるでもなくそれを追うでもなく、ペン握ったか。



しかし同時に上の台詞には、男の腕で以て書いている、と感じるときの万能的な充実みたようなものも表現されていないか。
女のセクシュアリティは神を志向する、とか誰かが言ってそうな気もするが、死んだ男は殆ど神のようなもので、彼女は神の腕で書く。
男-神の腕を借りて書くとき、彼女は万能だ。わたしはあなたであり、かつ、あなたを経由して見た理想化されたわたしである。つまりわたしは全体である、という万能感。たとえばひたすら受身的に愛されるだけの者や受身的に書かれるだけの者には得ることのできない、能動的なリビドーの躍動、とでもいいますか。また奪った腕で以て、もとの腕の持ち主に就いて書くときの感覚は、どこか復讐にも相似。


これは「やおい」の構造にも似ている気がする。
男性同士の性愛描写を女性が愉しむ「やおい」の世界に遊ぶ女性達は、様々な男同士の絆を、幻想の愛情関係に読み替えてみせる。
自身も「やおい同人誌」出身の漫画家である野火ノビタ(=榎本ナリコ)は、「やおい」の構造を、「(読者/作者である女性は)男性を去勢し、そのペニスをわがものとして、男性を犯しているのである」と表現してみせた(『大人は判ってくれない』日本評論社、251頁)
男から奪ったペニスとはそのまま、彼女たちが幻想を書き込む筆だ。能動的に書き込む筆。本来自分が疎外されている筈の男同士の絆の中に、彼女たちはそれで以てひっそりと参入し、自分の幻想を挿入する。
作品と本人を安易に混同してはならないけれども、彼女(野火=榎本氏)は代表作『センチメントの季節』の中で、自身の半自伝的作品として、少女時代に去ってしまった男性の思い出とその個人的な埋葬を描いてもいて、それは上に挙げた倉橋の作品を少し連想させる。勝手な憶測かもしれないが、この漫画家ももしかすると、男から奪った腕で描いている、という感覚を持った人なのかなあと想像した。

ところでさて。男から奪った腕で以て書く、という感覚があるということは、わたしたちは或る意味性転換せねば「書く」ことができない、ということなのか。ペニス=筆の無いわたしたちは、書けないことがいわば「デフォルト」であるってことなのか。
しかし、ちょっと待った。
そもそもそれはほんとうに男の腕だっけ。わたしたちにもともと生えているものでなくて、ほんとうに男から貰ったものだっけ。っていうか男は本当に「書ける」のだっけ。
女のエクリチュールは存在しない。成る程言われてみればそんな気もする。しかしそれじゃ男のエクリチュールは、そんなに自明に存在してるのかしら。男は、そんなに自明に存在しているのかしら。

そういえば「男を去勢」する「やおい」漫画を描く一方で、野火=榎本氏の作品――たとえば『センチメントの季節』や、『エヴァ』のパロディ作品――に頻出するのは、「剣(男性器)を持っているのに私を刺さない(刺せない)男の子」像だ。
あの女小説家が腕をもぎとった、死んだ男もこう言っていた。「ぼくの腕じゃ、あたらしい小説なんぞ書けやしないよ」と(『妖女のように』63頁)





女のエクリチュールは存在しない。成る程言われてみればそんな気もする。しかし、では、今此処で現にこうして書いているわたくしは誰なのか。
成る程その問いを常にまとわりつかせながら書くのだという点ではやはりわたくしも「自分という謎について書いている」ようだけれども、しかし自分という謎について書きながら、それを読む読み手に向けることを必ず想定しているとはいったいどういった訳か。






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