シフォン論#8 スネイク・ドリル・ペニス




憤怒の夜、風切りながら漕いでると翼生えて戦車みたいなやつに脱皮したチャリの前カゴ支える棒がガクッと折れて項垂れたそこから代わりに首伸ばした砲口から連射され、道ゆくやつらや車や道路に次々突き刺さるガラス片のようなメタリックの、この感覚だ、と不意に思い出したのだ、忘れてた、ああそうだこの感覚だった。かつてゼロ番ホームで別れたのち、立ち尽くして気がついたら手の中にあるのは杖のようなペンだけ、あのときの気分である、忘れていた、それが自分であった。それを書け。月経周期と消費経済のやさしくやはらかな水彩から剥奪されていたは、太い線で疾走する直線運動の描線で、それが無ければ自分で無いのであった。中学生の頃通学鞄に、アレを入れた黒い袋を隠し持っていたあの気分だ。愛しいひとの斬り取った局部を帯の中に忍ばせてた阿部定もキット、そんな気持だったに違いない。黒い袋の中からその声が、しっかりやれよ、と唆すのである。見てるよ、と囁くのである。そうして思い出されるのは不本意ながら、フ爺のお言葉であったのです、曰く、リビドーは一種類しか存在し無い。



フロイトは言った。リビドーとは、一種類、能動的なリビドー、男性的なリビドーしか存在しない。成程な、それは私の実感によく合ってる。
だからといってフロイトは、女性はリビドーを持たないといったわけじゃない。女性的なリビドーはないと言っただけで、つまり女性のリビドーも男性的なのである。
ならばリビドーの発散にあたって、女性の身体は不都合ということになる。ペニスを「唯一正しい性器」と表したように、フロイトの思うにはおそらく、女性の身体というのはどこか「間違った」ものであったのだろう。性同一性障害の人の身体が「間違っている」と表現されるのと同じ意味で。もちろんそんな言い方はしてなくて、「間違った」と思っているのは自分でなくて当の女性たちだと彼は言うだろうけどともかくも成程な、それは私の実感によく合ってた。だから女は陰茎を羨望する、とフロイトは言った。だがそれは私の実感とは少し違う。羨望では無いな。むしろ、既になんかを所有してる、って感覚だ。むしろ自分こそがそれを所有してるのにな、って感覚。だけどそれは目に見えないし名づけられてない。たぶんそのなんかのことを、フロイトは棒状器官と間違ったんであろう。たしかに男であったれば、それはストレエトな性慾として発散、或いは鬱積されていたのかもしれないが、だが対象を持たず放射するだけの光みたようなこれには、やっぱそれだけでは足りない。ゼロ番ホームで列車が発車した後の得体の無い気分だ。杖のようなペンに寄りかかってホレ書きなさい、と言われた。そしてペンを持って立ってた、なんてしかしちょっと古典的な象徴に過ぎようか。第一実際はタイピングだし。キーボードが発射ボタンなら、たまに誤射。





以前、ロック少女・Nさんが、「私がかっこいいなあと思うバンドは、私に男になりたいなあと思わせてくれるバンドやねん」と語るのを聞いて、そういうことか! と思ったのだった。分かる分かる! と思わず同意した。同席していた男性は、「おれには分からん」と首をかしげていたけれど。
姉も或るライブを見た後、興奮気味に語ってましたっけ。「女に生まれるくらいなら生まれてこなければよかった、そんなふうに思わせてくれる音楽が好き」 (姉の名言をママ引用:この部分の著作権は姉に帰属) と。
やはり分かる分かる! と思ったよ。女でいたくない、ということを以って共感し合う女たち、とは奇妙な図であるが、しかしそれはどういうことなんだろう。何故、わたしたちは、男になりたい、と思うのか。何故、この肉体じゃダメだ、と思っちゃうんだろう。そしてさらに、そう思うことが快であるのは何故なのだろう。

(そう思うことが快であるのは何故なのだろう――オット、この問いはまるで、女性の登場しない白昼夢がなぜ少女の快の座となりうるのだろう、というフロイトの描き出した問いに相似ではございませんか。)



心地よい夜風に汗を乾かしながら、あたしたちはライブハウスから駅への道を歩いた。
周囲ではたくさんの少年少女らが目を輝かせて、今日の所感を語らっている。
すげーよかった!すげーよかった! と或る少年がひとつ覚えに彼のギターヒーローを讃えれば、「あいつ、最近いい音出すようになったと思わん?」と、おまえはそいつの友達か!的口ぶりで別の少年が応じ、うんうん超かっこよかったよな!あの曲のときなんか!失禁するかと思った! と少女らも同意するのであった。少年もすかさず、

「な、かっこよかったよなっ、おまえら、あんなの見てたら抱かれたくなるやろ?」

次の瞬間、少女一同は大ブーイングであった。

「違う!!」

そうだ違う、そうじゃない、おまえはなんにも分かっちゃない。こんな夜に、野暮なことゆーなよな。彼女たちは、彼の性対象になりたいのでなくて、彼になりたいのだよ。
貴方には私を「女にして」など要らなくて、貴方は私を少年にしてくれるのでなくちや厭なのよ!






この肉体じゃダメだ、男になりたい、という思いを強烈に覚えた記憶は思春期にある。
そのじりじりとした羨望を思い出すことは、痛いと同時にどっか甘く心地よいのは何故なのだ。

女子が家庭科の授業を受ける間、男子は校庭でキックベース。
フェンス越しにそれを眺めてる。
今でも怨念的に記憶しているのは、
そのときの、ああ分断されてしまった! という感傷。もう子供時代とは違うんだ! という絶望感。
その感傷や絶望を思い出すことはしかし、同時にやはり甘く心地よいのは何故なのだろう。


そもそもわたしたち、女であることの何がそんなに気に入らなかったのか。
教室で、女子たちは、グループごとに固まっている。
そこに馴染めず一匹狼にもなれず、常に愛想笑いしている自分。
そうした格好悪いものが全て、自分の性別のせいであるような気がしたのだった。

中学に入って急に押し付けられたねずみ色の制服の、スカートから生える鈍重な足。
発育し始めた身体の条件は牢獄で、不自由の象徴のように思える。
皮下脂肪の付着しはじめた乳と尻と腹は、不恰好で重たい。
去年に初潮があってから、ますます不自由になった。
出血前から腹が張り、当日ともなると鈍痛と吐き気で立っていられない。
ちょっと座ったり立ったりするのも難儀で、始業の「起立、礼!」のたびに、血が漏れやしないかとびくびくしなけりゃならんとは。

そこへゆくと少年たちは実に無敵に見えたのでした。
夏には、薄いシャツ一枚でチャリンコに飛び乗ってどこへでもいけるし、その気になったら野宿して、永遠の旅だってできそうに見える。生理用品の在庫を気にすることもなく、トイレはそのへんで済ませばいい。痴漢や強姦魔に怯えなくてもよく、身軽であるから誰かに追われても柵を軽々越えてゆける。赤ん坊のように無力でなく、大人のように縛られてもいない。
それに引き換えわが身はまったく身軽ではなく、いうなればミオモである。厚ぼったい体では柵なんか飛び越えられず、短パン一枚で自転車になんか乗れない。夜風に吹かれてふらっと旅にでも出てみたいが、ヘンシツシャに気をつけなさいよ、と親は言うし。うっかりニンシンでもさせられたら、ほんとうのミオモになってしまうよ。


この体では闘えない!、この身体は正しくない!
怨念的に覚えているのは、最後に男の子たちと公園で遊んだときのこと。
ふと気づいてめまいを覚えたのだった。わたしにはもう生理がある! 胸のふくらみがある! もう戻れないのだ。
フェンス越しに眺めながら、その瞬間を反芻した。
少し前まで自分もあちらにいたはずだ。幼体のころは自由に泳ぎまわれたホヤが、成体になって固着生活を送るのは、こんな感じなんだろうか。
夏には汗でぺたっと貼りついたナプキンに赤黒い血が、あああ醜い醜い醜い、消えてしまいたい。

でも、今思えば、男の子たちもきっとそう思っていたのだろう。 男の子だって、わたしたちの羨むほど、自由でも身軽でもなかったはずだ。それに彼らもまた、ダサさやカッコ悪さや、罪悪感を含有した精液にまみれて過ごしていたはずだ。
今となっては分かる、いや、当時からちゃんと分かっていたのだった。
だからわたしたちが「男になりたい」というときは、現実のあの男子、教室にうようよいる毛深くてやかましいあの男子になりたいというのでなかたのだろう。わたしたちの夢見ていたのは幻想の少年で、わたしたちは男になりたいというよりも、男でも女でもないものになりたかったのだろう。だけれど、なんていうかなあ、そうした理想的な身体というものがあるとすれば、それには、この自分の身体じゃない、男の身体のほうが近いように思えたのだった。

その感覚を思い出すのが、たとえば音楽を聴くときなのだと、姉は言ったのだとおもう。
自分は心に獰猛を飼っている、という感覚。教室で騒いでる男子どもなんかよりも。
だがそれを放出する術がない。なぜかこの肉体じゃダメだ! それがフロイトの言う陰茎羨望と同一かどうかは知ら無い。


実際はわたしが男子であったとて、キックベースでかっこよく活躍することなんかできなかったであろう。
だけどわたしはときに、自分が幻想の少年であると幻想した。身軽で、無敵で、女の声ではない声で、女言葉ではない言葉を喋る、理想的な身体。そうすると、胸は高揚して日々を強く生きていけそうな気になる。
だが、そうして高揚したかと思いきや、パンツ下ろして付着した血液に、足首掴まれて地上に叩き下ろされるような気分。跳躍したところを墜落の気分。その気分を、怨念的に覚えている。








フェンスによって分断されてより何年経た頃、わたしたちは気づいた。わたしたちはこの身体のままで異性愛者として、男性との関係の中で幻想の少年になることができうるのではと。関係の始め、欲望されるわたしはその実その欲望する視線に同一化することで欲望する能動の位置に立ってるように感じたの。その能動的な位置にある者として更にまなざしを受けること、それは充実であったのに、当初の幸福な関係においてわたしたちは少年として愛されていた(あるいは愛されていると幻想してできた)のに、関係が「進む」につれ、エレベータみたく足場は落ちて、エプロンや小銭やうそ泣きや懇願や痴話喧嘩の現実に落ち着いてゆくはいといと心づきなけれ。


先日、雨宮処凛の小説『バンギャル・ア・ゴー・ゴー』(上下巻、講談社、2006)を読んだ。90年代を舞台に「バンギャル」たちの青春を書いた小説である。

バンギャルとは、所謂「ヴィジュアル系」ロックバンドの追っかけ少女を指す (「バンギャル」ってのは「バンドギャル」の略なんであろう……ダサい日本語だとは思うがしょうがない)。 実際に雨宮さん自身が「バンギャル」であったということなので、これはたぶんに実話的要素も含まれた、或る追っかけ少女の中学時代から20歳直前までの物語なのであるが、作中最も印象的であったのは、当初、学校にも家にも馴染めずその音楽だけにひたすらわくわくとして追っかけを始めたそのときには、バンドのメンバーと同じ黒づくめの服を着て彼らに同一化することに夢中になっていた女の子たちが、彼らに近づくには同一化よりも、彼らの性的対象にしてもらうって方法があるのだという気付き始める、その過程の描写である。
そうするとわれわれは、どんな服を着れば選んでもらえるだろうとか、どの人に何回セックスしてもらえるだろうとか、どんなふうに振る舞えば特別扱いしてもらえるんだろうとか、そんなみみっちいことにばかり日々心を砕いて、あんなに唾を吐きかけた筈のぬるま湯にずぶずぶと埋まってゆくことになるのである。それはまるで、そうだ去勢だ、去勢されたようなそんな感じ。

悲しかったのは、ああやって黒ずくめの服を着て、精一杯世間とか世の中とか、そういうものに対して異議申し立てをするようにしてたあの子が、もう黒ずくめの服を着なくなって、メンバーに媚びる方に目覚めたってこと。
みんなみんな、変わっていく。あのポポロンちゃんも最近はお姉系のカッコをするようになったと聞いた。みんなみんな、あれだけこだわっていた黒ずくめの服を脱ぎ捨てて、そして突然「女」としての自分に目覚める。女としての自分の商品価値みたいなものをマーケティングして、鮮やかに変身していく。メンバーに、黒ずくめのカッコをしている強烈な「ファン」ではなく、セックスの対象である「女」として見られようと必死になっている。(上巻287頁)

あの頃の私は、まだ全身黒ずくめの格好をしていた。そうすることが、すごく楽しかった。アスファルトにうつる自分の影がメンバーと同じシルエットになることが嬉しかった。黒い服を着ているっていうそのことだけで、メンバーに近付けた気がしてドキドキした。(略)
だけどライヴハウスに通うようになって、私は知った。本当にメンバーに近付くためには、そんな格好をしてちゃいけないということを。(略)
私たちは、知ってしまったのだ。そんなことよりも、メンバーと一発ヤることの方が、どれほど今ここにいる自分を確かめることができるかって。どれほど特別な人間になれるかって。どれほど自分に価値があるって、錯覚だとしても思えるかって。(上巻288-9頁)


バンギャルは、好きなバンドのメンバーと同じ格好をする「コスプレ」を好むのだが、この本によると、バンドマンたちは、自分たちのコスプレをしている子はただの「ファン」、普通の女らしい格好をしている子を「女」の見なすのだそうだ。(それはどんな感じなんだろう。性別越境的な服をまとうヴィジュアル系バンドの男たち。それを真似する女の子たち。そうして自分たちに同一化しようとする女の子たちを、彼らはどう見ているんだろう。)


また、他に印象的だった場面は、ライブの打ち上げで(駆け出しのバンドの打ち上げには、ファンが呼ばれることがしばしばあるらしい)、バンドマン同士がたわいない話をしてふざけあうのを、「バンギャル」たちが幸福な気持ちで見守っている、という場面。
それは、小学校の教室で人気者の男子の会話を微笑ましく聞いているかのようだ、とたとえられる。
ほほえましいその場面では、バンドマンとの恋愛やセックスのゴタゴタとした場面とは違い、「バンギャル」が「バンギャル」らしく楽しそうに描かれる。
男の子同士の関係を女性がたのしむという点において、「ヤオイ」少女たちのそれとも相似であること視線のあり方、そしてその感じは、とてもよく分かる。あのとき、フェンスの向こうでキックベースに興じるきらきらした(ように見える)男の子たちを羨望しつつ、フェンスのこちら側でわたしは、彼らを眺めながら彼らに同一化しつつ、どうしようもなく外部にいる。

そう、打ち上げに同席していくら憧れの人たちの近くにいても、彼女らは消費者でしか無い。彼らと彼女らは、あくまでパフォーマーとファン、眼差しを受ける側と送る側、金銭を受け取る側と費やす側、という非対称性で阻まれている。追っかけの彼女らがその打ち上げに支払う参加費は、彼らの資金になっていて、そしてどうしてもあっち側へ行きたいと思うなら、彼女らは、彼らに同一化することを捨て、女の服をまとってフェンスを乗り越えるしかないのであった。
だがそのときもう、音楽を聴き始めたときの、音楽を奏でる彼らに同一化することができたときの、幸福なきらめきはみじんも無い。

だから、分断された女の子たちが、音を聴く初期衝動のもとに再び集う、この物語のラスト近くは感動的だ。






かれらがふりまわすそれは隠喩というのも口幅ったいあまりにあからさまな男性器の比喩。かれらは身勝手な男の歌を歌う。そこにいるとき、それを聴くとき、あたしも身勝手な男の性欲に共感する。なんで? ときみは言う。不思議がっておればよい。彼女たちは身勝手な男のリビドに共感してぴょんぴょん飛んで一緒に歌う。彼女たちは知っているのです。かれらが暴力的な男根を誇示的に振り回してみせているようでいて、実は去勢されたそれを振り回しているだけなのだということを。だから好きなのだ。して、また、彼女らも、去勢されたそれを持つものであるからして、われわれは共犯関係にあるのだった。それと同時に、彼女らは消費者でしかない。






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