シフォン論#7 ヒステリー娘、お星様になる



白い肌をしてるあの娘が 17才で
手首を切ったことを 自慢げに話す
黄色い髪の男のアタマには
狂った恋のメロディが流れてたんだ

(BABY STARDUST/thee michelle gun elephant)



知らない女の子のはだかをインターネットで見た。
わたしよりもいくらか幼い彼女は、だが成熟して長く伸びた脚と、はちみつ色にかがやく肌をもち、生命そのもののように、うつくしい。
しかし彼女のほそくてきれいな白い腕には、たくさんの赤黒く膨れた筋が刻まれていた。
彼女はそれをまるで勲章のように誇らしげに示す。
ほどなくして、彼女のホームページ上で、彼女の友人と名乗る人物によって、彼女の死亡が伝えられた。
わたしよりも、いくらか若い享年であった。
一方のこのわたしはといえば、みずみずしくもないが熟しているわけでもない身体を持て余し、ぶよぶよ肥厚しながらいきているのか。


ぶよぶよ肥厚するわたしを、にもかかわらず、何をおもったか幻想の投影の対象とした。それはきっと青年のよくある勘違いであったろう。
その視線に眼差されて、そのときだけ、あの娘のようになれた気がしたんだ。
で、わたしは、十二歳のときに手に入れ損ねたと気づいたものの幻影に、まだとらわれてることを知ったのや。
十二歳のとき手に入らなかったものが、二十一歳の自分には手に入れることができるのね。
なぞと思えば有頂天にもなるのは、思春期にまるでモテなかった子の、じつにありがちな失敗の仕方よ。




今でも覚えているのは、横抱きに抱えられて運び去られていった彼女の青白い横顔だ。
十二歳の頃、わたしは既に醜い生き物であった。一方で彼女は、学校中で一番可愛い女の子であった。埃っぽい教室にいるのが不似合いな、むしろ銀幕の中にいるべき横顔を盗み見ることでわたしは、逆鏡像段階的に自分の醜さを思い知ったのだった。
実際は彼女は喋ると普通の中学生だった。テストの点数や部活の試合の話。クラスメイトの悪口や芸能人の噂話。だが、実際の彼女が平凡かどうかなんて重要じゃない。その容貌だけで、この子本当はきっとモット何かあるに違いない、と思わせ物語を喚起させるに足る、そうした可憐な姿形、儚げな佇まいを持っていることが重要だった。
その彼女が、マラソン大会で走り終えた後、ゴールに倒れこむように失神した。若い男性教師に抱え上げられて運ばれてゆく白い横顔をちらりと見た。皆が道をあけた。教師の腕の中で彼女は目を閉じていた。頬に影を落とす長い睫。後姿を見守りながら、大丈夫かな、かわいそう、と誰かが心配そうに声を上げると、別の誰かが、でもちょっと羨ましいよね、と呟いた。きれいな子は何しても絵になるしいいよね。お姫様抱っこだよ? 倒れても絵になるよね。わたしは無言で共感した。

それまで、「可愛い子はいいよなぁ」と級友が露骨に羨望を表しても、そうかな? と関せぬ風に装った。いいんじゃないの、べつに、あたしらにはあたしらでいいとこあるんだし、と言うと、「よく言うね、すごい自信」と呆れられた。が、運ばれてゆく彼女の姿を見送りながら、わたしは心底、他人の美しさと自分の平凡さに絶望した。こんなに醜いなんて、永遠にその他大勢の側にしか在れないだなんて、死んだほうがましだ!
きれいな子は何しても絵になるよね、とざわめく声はわたしの耳には、おまえじゃ倒れても絵にならねえよ、第一おまえなんか倒れたって誰も抱え上げねえよ、というふうに聞こえ独り悶々としたのであるが、もちろん実際は誰もそんなこと思ってるはずもなく、ていうかそんなこと思われるほど誰もわたしのことなど眼中にない。





クラスの美少女が男性教師に抱かれて運ばれてゆく。
その光景があれほど強い印象を残したのは、彼女が可憐な少女であったからでなくて、可憐な美少女であるところの彼女の中に、あの、わたしがかつてそうなりたいと願ってやまなかったところの、重さを持たない少年の像を見たからなのであろう。
そう、十二歳のころ強く羨望していたのは(そして得られなかったのは)、可愛い女の子としてちやほやされることよりも、むしろ、少年であることであった。男女に性別化され、皮下脂肪と月経の沈鬱な重さの錘を引きずらされた十二歳は、身軽に見える少年を羨んだ。かつ、無条件で愛される子供から、愛でられ難い醜い中学生に脱皮した十二歳は、清らかなものとして眼差しを浴びることを懐かしんだ。綜合するとわたしは、重さを持たない少年として皆に眼差されたかった。よって、軽々と抱えられて眼差しを浴びる美しい彼女を羨んだんだ。実際美少年であったなら、こんなふうに書いたタルホもさぞや喜んだであろうかな。


 ではこの、底部まで艶出しされた新らしい靴を穿いた自分はどうありたいと云うのか? (略) いっそ、この靴をはいたまま何か手荒に取扱われたいのである。たぶんこのまっさらな、英国生地の、擽られるような甘い匂いのする、そうしてそれは軽々としかもぴったりと身体の線にそうて、殊に腰まわりに密着しているところのパンツをつけたまま、ひらめく万国旗の下を駆け出しているさいちゅうに軽塵をあげてぶッ倒れ――しかし直ぐに立上るのでなくてそのままどうかなってしまい、タバコ臭い先生の両腕に抱き上げられて救護所へ、おそらくみんなの心に或る種の羨望と憧憬をそそって、運ばれて行きたいのだ。(稲垣足穂『A感覚とV感覚』より)



タルホ的少年は、なんでか軽さとつながってる。タルホが少年愛に見出す「A感覚」のAとは、Analのことだけれども、タルホ的Analは肉を具していない。少年の身体は肉のようでいて、実は肛門から口へ抜けるその空洞、空洞のほうが本体だ。タルホは言う。Aを下から覗き込めば、Oralの天窓から星空が見える、天体に抜けるのだと。そこにはタルホの好きな飛行機、いや、飛行器も飛んでるのだらう。勿論それは飛行器であるからすぐ墜落して、潰れたら、別ニサワリタクモナイ。でも死体になることはタルホ流にいえば「お洒落の完成」だ。軽くなることだもの。さて一方でV感覚、すなわち貴女がたのVagina は、空が見えない行き詰まりですとタルホは言う。行き止まった「通り抜けできまへん」の袋小路だ。黒ずんだ血盆がそこに吹き溜まった。


私は、胃袋を重くすることにかかわりのある用件は、すべて支持することはできません。(稲垣足穂「北極光」より)


タルホの描く少年性は、重力とつながらない。少年で無いわたしはせめて、消化器官の中を空洞にしておきたがった。肉が削れて性別器官は機能を停止し、カラになった胃の襞から、羽根がやがて分泌されたらば、軽くなるだけ、あとはトぶだけ、だ。
A感覚的少年性は、垂直に飛翔する憧憬である。だから必然、重いより軽いが好まれる。身軽の対義を身重とすれば、如何せんわたしは身重だった。下腹部に袋小路を持つ。そこに血が溜まる、ときどき胎児も溜まる。飛翔ののち地上に叩きつけられて死体と化すタルホ的飛行器のロマンとも違う、ただただ初めから、散文的に地上的なのである。
だから青年に、「ちゃんと食べてるの? 大丈夫?」と問われたときは夢のようであった。


JUNE小説の主人公がよく言われる、「ちゃんと食べてるのか?」という台詞を、教室の片隅の醜い十二歳が言われるとは思いもよらなかった。
君をモデルに小説を書いたんだが、と文学青年は言った。ほうほう、どーせぼーっとした子が出てくるんやろ、と読ませてもらって驚愕したは、小説の中の架空のわたし、いや「あたし」は病んでいて、手首に無数の傷痕と、指に無数の吐き胼胝がある。「あたし」は自分の性を嫌悪し、ママのように成熟したくなくて、喉に指つっこんで便器に向かった。
なんできみがそのあたしを知っている?
さらに彼の小説は、全体に、病む少女に対する熱いロマーン的視線、早い話に萌え視線が覆っていた。
で、わたしは或る懐かしさを感じて、思い出したのだった。


そういやわたしも書いたことあったわ、病気萌え小説。
と、彼には言わなかったが後から思い出したんである。イヤ、小説なんてほどのもんでもなく、妄想作文なのだが、十二歳の頃、やはり実在の少年をモデルにして綴ったのでした。
仲間たちとふざけあいながらも、彼はどこか孤独そうだ。秋の教室で、いつも通りバカ騒ぎをする級友たちの中で、ひとりだけ何かに気づいてしまってる。彼が気づいてしまってるのは、この日々がいつか終わりつつあること。過ぎ去りつつある少年の日々に、無意識の郷愁を抱いて、彼は揺れている。未だ華奢な体型に比して、心持ち低くなった声や、仲間たちがまだ知らない身体のだるさ。それらを級友に指摘されからかわれても、彼は何かを諦めたように笑うだけ。
なんとまあリリカルなそして恥ずかしい世界でしょう。でも誰に読ませるわけでなく、自分でうっとりするために書いただけやからそれでええ。が、それは、単に、儚げな美少年萌えのもとで書いたのかといえばそうでもなかった。
ときどき教室の窓際で、ふと物憂げな眼を見せる彼を、語り手だけが知っている。彼が気づいてしまっていることを、彼女だけが知っている。彼女は同級生の少女なのだが、少女は作中で彼と一切会話することもなく、接触することもなく、ただ語り手として記述するのみであり、ラカンの言葉によれば「眼差しそのもの」のようでもあり、時折少年と一体化したように少年の心情を独白する。



成人後わたしは、「女であることの違和感」を語ると或る種の男性にみょーにモテるということを知った。「女であることがこんなに苦しいの」などなどと語るうちにどうもそれが萌え的興味を煽るという逆説。あれって何よ。と思っていたわけだが、自分も十二歳の頃似たような萌えをもっていたわけですね。
それにしても。我が身に起こりつつある変化に戸惑い、重く熱ぼったい身体の憂鬱を持て余していたのは、少女であるところの、他ならぬ自分であったではないか。その自分が、わざわざその憂鬱を幻想の少年に投影し、そうしたうえでうっとりすることは、どんな種の快であったのか、どんな種の感傷であったのか、未だに上手く言い表すことができない。

して二十一歳のわたしが覚えたふしぎなかんどうは、かつて自分が少年たちをまなざしたように、今度は自分が他人からまなざされ(そちら側に立てるなんて思いもしなかった・だってわたしの胃袋には・げんじつしか詰まっていないのによ!?)、しかもその他人とは、かつて当の少年であったところの異性である、という。
オーケー、きみたちはわたしの手首にありもしない傷跡を幻視してくれ。きみたちはわたしの生活史にありもしない外傷を想定してくれ。わたしの身体を包帯と薬品でカスタムしてくれ。でも難儀なことに、かつて憧れた、見てもらえる萌えてもらえる対-象の立場に立ててよかったね満足ね、といえば、わたしたちはどうやらそれでは充分でない。



部屋。PCのライトだけが点いてる。 彼女はひとりできざみこむ。
夜中にひとりできざみこむ。恋人がいるのに。
上官もいない、罪状もないし、命令されたわけでもない、セルフ流刑地機械だ。
でも観客はいる。彼女は、白い腕に、刻み込んだ痕を、デジタルカメラに収めて、インターネットの海に流す。白い腕に赤いライン、撮影のためにレースの服に着替えた。ひらいた傷口はホチキスでとめた。
観客はいるが何か足りない。誰か、誰か、いちばん見て欲しい人が見てくれていない。
だが彼女はほとほと正気だ。だってわれわれは、魂の叫びに見えてもタグ打ってる。死にたい、と書いて次で改行、<br>って打った。F10で半角だ。「死にたい<br>」。ここにリスカ画像を挿入。画像ソフトで補正した。<img src="risuka.jpg">って打った。ローマ字かよ。わたしは、ローマ字かよ、ってつっこみ入れた。わたしは散文。彼女はその散文性に、気づいてないわけじゃない。彼女は頭がいいから、気づかないはずがない。だが彼女の美しさが、その気づきを圧倒したのであると思う。彼女はその美しさの力技で、刻んだ文字と自分を一致させた。わたしが彼女を羨望したのは、彼女がわたしのポジであるように感じられたからだ。自分はネガだ、自分のポジがあそこにいる、と、わたしがそのように感じていることを、彼女は知らない。彼女から見れば、わたしなど何の関係もない、袖も振り合わぬ縁無き衆生でありましょう。十二歳の頃の、美少女や少年との関係性とおんなじだ。


四年後。
手首を切って亡くなったはずだった女の子は、ほんとうはまだ生きていたことが分かった。
狂言自殺であった。



彼女を動かしてきたのは、女性的な虚栄心、女性的な自己愛であると人は思っている。だがそうなのか? 彼女のもつそれらを、わたしが持っていないかのようにきみは言う。だがそうではない。
じぶんの身体を愛そうと思えど、誰の視線も迂回しないで、それを愛する方法をわたしは習得していなかった。それは彼女もきっとそうだったんだろう。
そして視線を受ける位置を占めようには、まっとうなそれには不足であるし、歪んだ愛玩を受けるよりほかに位置の占め方は知らないし。たとえば尊敬を受けるものとして在る方法など知らないし。もう一度「病気萌え主体」としての位置を回復して外傷を投影する側に回ろうにも、一度投影される側になってからくりを知ってしまうと、どうもうまく萌えられないし。女性の少女期以降はすべて少女期の予後であると言った矢川澄子女史の言葉を借りれば、われわれの予後はずいぶんと不良である。

わたしは未だに自分のポジであるように感じられるところのあの女の子を見てる。あの女の子の手首を見てる。手首にちりばめられた赤いラインはまるで、夜空にまたたく星座のよう。
あちこちで、また過食嘔吐しちゃった女の子、傷だらけの裸を見せるネットアイドル、いつかお星様になりたいヒステリー娘たち。
ネットに点在するリストカット画像が赤くまたたいて大銀河、で、見上げるわれわれはほとほと正気。地上で生きている。海に写った星を見る。そこに自分の腕を重ねてみる。彼がわたしの手首に勝手に彼の思い描く外傷を幻想したように、海に写った彼女の星座に自分の手首を重ねてみる。当時より皮膚が年をとった。彼女も年をとるだろう。
海にうつった彼女に訊いてみよう。星くずのひとつの気分はどんな感じ?
どんな感じだった?





Aへ、
その数年後、諸事情によって、この種のびょうきは、――貴方の言葉をお借りしていえば、全く以ってなし崩し的に―― いくらか解決されたようにおもいます(が、更年期ごろに再発するのかもしれない)。

(200402/2009かひつ)




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