シフォン論#5 21歳(出世のチャンス/結婚について)




ブロイラー
出世のチャンスだ
はりきって焼かれるぜ
(Theピーズ「ブロイラー」)


W-G-W、B-W-H、G-W-G、B-W-H
W-G-W、B-W-H、G-W-G、B-W-H
部屋着のまま角を曲がったコンビニに行った。
昨日婚姻届を出したという、「籍を入れた」と古来よりの言い方をしたきみは、世帯主になったので諸々の書類の記入に忙しいと言った。
入籍、扶養義務、税金、性交、貞操義務、
同じ墓、忌引休暇、介護、看取り、
遺産、

きみはきみの配偶者と公式に対になった。でも 公 って何処にある。市役所の中、区役所の中? 婚姻にまつわる法的関係を持たないわたしは、宙ぶらりんのまま、まるで何処にも登録されていないかのようである。
未登録牛、未登録豚。

誰かと対にならないと世界に登録されない気がする。
大正時代の建物の壁に沿ったイルミネーションの通りを下る。
原子力発電で発光させられたツリーの下で、多くの男女が手つないでいる。
夜の街に鏤めたきらきらが天の川のよう。ラブ&ピース。
戦争よりもセックスを。
殺しあうより愛しあおう。
と訴えて、ヨーコとジョンはベッド・インした。
だけどそのとき、選ばれなかった者は、どこへゆけばよいのでしょう。



ニートだから一日中部屋着でうちにいた。生産的な仕事を何もしていないと、存在しないかのようで不安定になってくる。
しかしコンビニまで行って、100円のガム買ったら落ち着いた。
登録牛、登録豚。

100円出して、商品受け取った、それだけのことで、世界に参加できたきぶん。
その世界はしふぉん主義社会。
わたしたちの生きてる世界は、どうしたってしふぉん主義社会。

昨日は工場に行った。

・時給750円、8時間労働
・(但し往復交通費は自己負担)
・また安全保障費として1日につき170円を引く
・(但し名目のみ。実際には安全など保障しません。事故は自己責任です。)
・工場内の所定の場所に始業30分前に集合のこと
・業務内容:商品(小売単価1000円)の検品
コンベヤに乗った小売価格1000円の商品が1時間に何百個もこの手元を通過したが、工場の敷地から出た売店で売られているそれを、本日の日給では数個も買えない。

今日も出世のチャンスが私のドアを叩かない。
今日も誰にもプロポーズされない。
はくばのおうじさまがコンベヤに乗ってやってこない。
コンベヤをじっと眺め続けるので肩凝った。
翌日、マッサージに行った。
・凝り・疲れがとれます
・保険適用外
・30分2000円

身体が資本ですから。



或る論文に引用されていた、摂食障害の少女の談話:

「(今の社会では)しんどいことをしてないと、アカンというところあるじゃん。だからみんな脚の毛を抜いたりしてる」(圓田浩二「嗜癖としての摂食障害−セルフ・コントロールと強迫する社会」、『現代の社会病理』第16号別冊、2001)


でも脚の毛抜くのはほんとうにしんどいことだとみなされてませんよね。自分はまだほんとうにしんどいこと知らない、嗚呼ほんとうにしんどいことしなきゃ、と思ってわたしたち喉にゆびつっこんだりする。

テレビに出ていた女子マラソン選手の、金属の様に骨ばって痩せた身体を観て、全国何百万の拒食少女、過食少女、ダイエット少女たちはいま何を思っているだろう、と考えた。
長距離陸上選手は、その過酷な訓練ゆえ、自然と月経が止まってしまうことがあると聞いた。余計なお世話ながら、走ることが楽しいと笑う彼女は、正常に月経があるのかしらんと考えた。しんどいったってまだ生理がなくなるほどの過労はしてないあたしは未だ一人前ではないよね、と女友達が言った。高橋尚子の痩せた身体を観て、ダイエッターたちはやはり、あたしは未だ努力が足りないのだ、と思ったかしら。

「痩せすぎです、どれだけ痩せれば気が済みますか、もう充分でしょう、それが分からないのは、病気だからですよ」とかなんとか医者が言っている。でもね。
あなたがただって、たとえばそれがお金であれば、どれだけあったって充分過ぎることはないと思うでしょう?
そんなに貯めたって使い道なんかないでしょう、どれだけ貰えば気が済みますか、もう充分ですよ、と言われたって、だってたくさんあるに越したことはない、と貰えるだけ貰っておくでしょう?

はした金をいくら貯蓄したところで、はした金。欲しいものは何も買えない。
うんと痩せると、月経が止まる。排卵が止まる。
通常われわれは、体外に対して月々一個の卵子の支払いを行っている。痩せればそれを支払わなくてよい。
金銭を貯蓄する代わりに、卵子を体内に確保しよう。



この王子は、毎日絶えず「私を殺してくれ、そうすれば、私の肉で良いシチュウができるだろうから」と叫ぶのだった。彼は何も食べず次第に痩せた。(Vandereycken&Deth『拒食の文化史』 野上芳美訳、青土社、1997、183頁)


アヴィケンナの挙げるメランコリアの症例には、自分が牛になったという妄想を抱く、アノレキシアの王子の症例があるそうです。彼は、牛になった自分を食べてくれとさかんに訴えたそうです。
シチュウにされて食べられたら、と空想する。

あぶくたった にえたった
にえたかどうだか たべてみよ
むしゃむしゃむしゃ

幼稚園の頃その遊びが好きだったが、いつもその後、「まだにえない」と食べてもらえないのが不満であった。ほんとに食べてくれればいいのに。

チェルノブイリだけじゃなくて、日本の海にも、ノルウェーの海にもいつどうなるかわかんない核があって、南極だとか、北極のうえのオゾン層は穴があいてて、日本は他の国の戦争で楽しく暮らしてて、お金もうけのためならなんでもしてて、第三世界の貧しい人の血をかいあつめて、国の中のバカなやつらにあびせかけてる。何も知らない赤んぼうまで、血にそまって、生まれる前からの人殺しがこの日本には1億2千万以上いるわけです。どんなに必死になってもこの世界中の人の血しぶきからのがれられない私たちは、ときどきブルーハーツのコンサートでそのやりきれなさを発散するわけです。(『僕の話を聞いてくれ』リトル・モア、1989、219頁)


80年代、バブルの頃に、11歳の女の子が書いた文。生まれながらの人殺し、と彼女はいう。
他人の肉を食べてできたわたしの肉。それを、他の誰かに食べさせたら、わたしが他の肉を食べたことは帳消しになるかな。と空想する。
そうだ、食べられることは、これまで借金してきたわたしがその負債を一気に帳消しにできるチャンスだ。最後の審判的徳政令だ。先送りにしつづけてきた決済を、わたしの肉で終わりにするのだ。

「いままでわたしはみなさんのお肉を食べてきました、お詫びに今度はわたしのお肉を食べてください」。

でもそれは、お詫びのようなふりをしてその実、これまで食べさせられてきたことへの復讐です。食べさせることで、わたしは一気に優位に立てるのだもの。こりゃ革命だ。債務者から債権者へ。メラニー・クラインの悪い乳房のように、おまえの内側から、復讐する。
食べられることは、出世のチャンスだ。よく言ったもんだよ。



そして、痩せた身体を誇示することで、わたしは誰の肉も食べておりませんよ、誰にも負債を負ってませんよ、と示さなきゃ。そればかりか、わたしの痩せた身体を見たら、「あなたは自分のお肉を人に食べさせて、こんなに痩せてしまったのね」ってみんな思ってくれないかなあ。

その夢想は、「売春」にまつわる幻想に似ている。
わたしたちの間には、「売春」にまつわるゥロマンティークな幻想があって、それは、観念的な売春、実際の、労働の問題や技術の問題から切り離された、甘美な幻想としての「売春」だ。美しい我が身を自己犠牲的に差し出して誰かに食べさせるイメエジだ。
そんでそれは「痩せなくちゃ」強迫に少し似てる。
たとえば東電OL事件。あのとき人々は、殺された彼女に託して幻想した。
表の顔は高学歴総合職、でも夜は売春婦、という物語性に、男性週刊誌が色めきたって猟奇的に騒ぎ立てる一方で、何人かの女の人たちは切実な調子でこう言った。曰く、私がやるべきことを彼女がやっていた、東電OLは私だ。
そして、わたしたちがそんなふうに感じたことは、きっと彼女が拒食症を患っていたと報道されたことと関係ある。彼女の異常な痩せが明らかになったとき、女性週刊誌は同情的に彼女の摂食障害を扱った。
そこからわたしたちが作り上げたのは、一介の女性労働者――エリートであるけれど男社会の駒に過ぎない――であった彼女が、春を売ることで、我が身を削りながら社会に、男に、父に、復讐を果たしたのだ、という悲愴でかつ痛快なイメエジだった。身を切って、血を流し肉を削って食べさせて、内側から、復讐。その痛々しい想像が事実に近いか近くないのかはもう誰も分からない。実際の、生きて生活していた、彼女にとって「売春」は、単に端的に労働とか技術とかもしかしたら娯楽であったかもしれないのに。ともあれ、わたしたちは、幻想を抱いた。


ところで売春といえば、わたしも知らないオヤジにもちかけられたことがある。
「どう? 5000円で!」
安っ! と思ったが同時に、ああよかった、わたしの値段は5000円ですか、と値付けられてほっとした。
登録牛。登録牛。

だけどちょっと待った、値付けられたのはわたしの何であったのか。
「安っ」? でもそれは何の値段が、何に較べて?


金は百円なら百円の価値、一万円なら一万円の価値がある。それは何処にいっても変わらない。こういった不変の価値は、自我の弱い、しかも将来、未来への実質的な展望をもつことができない彼らを大いにひきつける。(下坂幸三『拒食と過食の心理』岩波書店、1999、85頁)


「東電OL」も金銭蓄積に非常に精を出すタイプの人だったと報じられていたが、金銭への執着は拒食症の患者たち一般によく見られる傾向であって、その傾向についてお医者さまはこう仰る。
でも、お金に執着するひとは、彼女たちだけではなかろうよ。もっと巨額のお金にもっと醜く執着するひとはたくさんいるだろうよ。
そりゃああなた方お医者さまに比べたら、あたしたちは「未来への実質的展望」を持ってはいない。それを持たない者は着実に堅実に生きてゆくのが正しいことであろうよ。で、堅実って、NHKでお茶汲むこと? あなた方のために郵便爆弾の封を切ること?

いくら未来に展望があったって、いくらお金があったって、誰もいつかは移ろうてしまう、ほうっておけば腐ってしまうような食べ物を食べて生きている身体はそのうち腐ってしまうんだ。一方わたしたちは食べないことで普遍を目指した。仏典のお話では、火の中に跳びこんで自らの肉を食べさせた兎は、その姿を永遠に月に刻んでもらえたではないですか。無価値なわたしたちの身体の、それは文字通り命がけの跳躍だった。


幼年期の思い出:
子供の頃、怖かったことのひとつに、「紙が劣化する」ということがあった。絵や字を描いたこの紙は何年くらい持つのだろう? と考えると不安になる。黄ばんだ紙や弱って破れた紙を見ると、胸のあたりに異物があるような厭な気持。まだちょっとしか経ってないのに黄ばんじゃって、あと五十年後、百年後には、この紙はどうなってんの?


で、紙媒体は衰退し、デジタル時代でありますが。
どっかの教授が、交際している女性の裸体写真をインターネット上に公開していた件で逮捕された。逮捕の理由は「猥褻物の陳列」だった。そのサイトでは、この女性の尿や唾液が売られていたという。そのこと自体に罪名は付かなかった、でも、報道では、彼らの行為のうちでそのことがもっとも問題視されていたようだった。だってそれは何かを撹乱しちゃう。
誰が、どのような規準で、何を参照し、唾液の値段は決まるのか知らない。わたしが日ごろ分泌する唾液は、値をつけられることなく嚥下されたりそのへんに吐き捨てられたり。それらは無価値。無価値なわたしの唾液は、いつどのようにして価値を持ち、商品に変態したのか。
「尊師」は、風呂の残り湯や髪の毛を法外な値で信者に売っていたそうです。しかし何円からが「法外」なのか。教授の愛人の唾液と尊師の残り湯はどっちが高いのか。
高く売れるその日にそなえて、血液も内臓も心臓も、美味しく仕立てておかなくては。

食べるために働く。得た金銭で食べる。食べて太る。痩せるために金を遣う。無意味なプロセス。でも私はたとえばてつがくしたりない。私の脳が私の脳について考えるということについて考えるということについて考えたって、プロセスの無限について思考したりしない。「メビウスリングをちょん切」るようにして、痩せさえすれば全て解決するという幻想にでも、ひたすらしがみつき続けやう。

身体がシフォンですからねえ。

だから、わたしの身体はやはらかくて、あまいのだよ。

尊師は死刑を言い渡された。







back