シフォン論#4 スネ夫が叩かれる




中島梓著『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房、1991)という本を見つけたのは高校生のときでしたが、「こんな本があったとはあっ! やはりさうだつたのか!」と驚愕したのを覚えています。

それは、いわゆる「やおい小説」の第一人者の手による評論でした。
「やおい」とは簡単に言えば、女性による女性のための男性同性愛を描いた(たぶんにポルノグラフィックな面もある)フィクション、を指す俗語で、近年「オタク」文化が脚光を浴びるのに伴っていくぶんメジャーになり、腐女子彼女だの隣の801ちゃんだのが流行、社会学や文学からの言及も増え、文芸誌がBL特集を組むようになりましたが(註1)、そんなものが堂々と論じてよい対象になりうるとは想像していなかった高校生当時は、ずいぶん驚いたものでした。
ですがわたしが驚いたのは、単に「やおい」について論じられていたからというのでなく、その現象――何故か男性同性愛を性的ファンタジーとして好み、そうしたフィクションを読み書きせずにいられぬ女性たちが存在するという現象――が、「ダイエット」や「摂食障害」と結び付けられて論じられていたからでした。書店の棚の前でわたしは独り、「やっぱり!やっぱり!さうだつたのか!」と昂奮し膝を連打しました。
中島氏の論には「そうかなア」「ここは問題含みよなア」と思うところも勿論ありましたけれども、その一点だけでも非常な衝撃だったのです。




小学生の頃。
従姉妹たちと遊んでいた母の実家で、古いコミック本を見つけました。
我が家では少女漫画の類は貶められていたので、それがまさか若き日の母の愛読書であるとは思わず読み始めたわたしは、その不思議な世界に瞬く間に呑み込まれました。
年をとることなく、幾時代もを駆けてゆく、永遠の少年たちの叙事詩。愛する者がまた一人消えてゆくのを見送り、自らは時流に取り残されたままの、不老不死のバンパネラの物語。エエ、それは、萩尾望都の名作:『ポーの一族』でした。
わたしと従姉妹たちはその大河ロマンに夢中になり、従姉にいたっては台詞を全部覚えてしまうほど(どの台詞も詩のようでとても魅力的だったのですよ)。そしてときにわたしたちは、「ポーの一族ごっこ」に勤しみました。薔薇の花に見立てた何かを捧げ持ち、互いに抱擁し合い、「エドガー!」「アラン!」と叫び合うのでした。阿呆……

そうです、その漫画の中では、美しい少年たちが腕を絡ませ合ったり頬を寄せ合ったり、ときにはキスしたりしていました。薔薇園の中で、哀しい目をしたエドガーの細い腕が、時折女の子のように我侭でヒステリックなアランの、これまた華奢な身体に巻かれる場面。それまで読んだことのある「少女漫画」といえば、すべてボーイ・ミーツ・ガールの物語でした。まさに、遅刻しそうになってパンくわえて走ってるところに転校生の男の子とぶつかって転んで「パンツ見えてるぞ」的な。よって、『ポーの一族』の世界は、わたしにとって初めて触れる世界であったはず。ですが、萩尾先生のあの画力で展開されるそうした世界に対し、「男の子同士だのに、なんで?」といったような疑問は、なぜだかまったく浮かばなかったのでした(註2)。見てはいけないものを見てしまったような気持ちは少ししましたけれど、むしろ、ほーらやっぱりこういうものがあるんやん! と当然のように受け止められたのでした。

ほーらやっぱり、と感じられたのはきっと、幻想の中ではそのような世界が、ずっと幼い頃から親しいものであったからです。




(自分の立場を明らかにしておくと、)わたしはまったくディープな「腐女子」ではなくBL作品はほぼ読んでいないのですが、「腐女子」的幻想は、幼年期、非常に親しいものでした。
たとえば、幼稚園にお気に入りの男の子がいた頃。
「○○君が好きねん」と言ってはいたけれど、それは、自分がその子と遊びたい、話したい、ということではない。むしろ、その子が他の男の子たちと一緒にいるのを見るのが好き。そうすると、なんでかわくわくとしてあたたかな気分になるのでした。

夜寝る前に彼のことを思い出しもしましょうよ。でも思い出すのは、自分がその子と一緒にいる場面ではない。その子が他の男の子と遊んでいる場面、あるいは、その子が他の男の子と喧嘩している場面です。
喧嘩している場面の記憶は、次第に空想へと移行、昼間の喧嘩の記憶から発展して、彼が他の男の子に負かされ殴られたり苛められたりする空想になる。やがて、他の男の子たちは漠然とした誰かになって、たとえば幼稚園の先生や、知らない大人の男の人になったり。一見陰惨なその空想は、しかし相変わらずわくわくとしてあたたかな気分をもたらすのです。
その空想の中で、わたしは何処にいるかといえば、何処にもいないようでもあり、虐められている彼に同一化しているようでもあり、そうかと思えば虐めている誰かに同一化しているようでもあり、あるときには虐められた彼を助けてあげる役のようでもある。 ふしぎなのは、自分が実際の女児であるところの自分として登場することは、けっしてないのでした(註3)




時は流れて大学生になったわたしが、またも驚愕することになったのは、フロイトの訳本をぱらぱら眺めていたときのこと。
フロイトというのは、精神分析、というのんを考えた昔のお医者さんです。精神分析というのんは、人間の無意識というやつを、幼年期に遡ってその構造をつきとめてやろう、というようなアイデアです。
8、90年も昔に書かれた「子供が叩かれる」という奇怪ながらも気になるタイトルを持つ論文で、フロイト先生は、こんな報告をしていたのです。


ヒステリーや強迫神経症のために精神分析治療にかかってきた人たちが、驚くほどの頻度で、「子供が叩かれる」という空想の表象を告白するんである。この空想は、顕らかな発病によって治療の決心に至ることがなかった他の人々にもさらに頻繁に現れているということがあっても、何ら不思議はない。(S.Freud(1919): 'Ein Kind wird geschlagen'. Gesammelte Werke XII. p.198)



ええっ、それはまさにあたしの幼年期の空想ぢゃないか!!
更にフ先生は、「女性の空想の中で叩かれるのは常に少年だ」とか「その空想に女性は殆ど登場しない」とか指摘します。それはまさにわたしのことではないですか。「やっぱり!やっぱり!さうだつたのか!」とまたも膝連打祭です。フロイトといえば今では、胡散臭いデンパ理論でひとびとを惑わせたエロオヤヂ、というイメエジが一般的でしょうけれど、しかしこの空想に着目したというその一点だけでも、わたしにとって特権的な思想家になってしまったのでした(註4)



話戻って。

わたしの幼年期の空想は、形を変えて、再び思春期以降に回帰してきたのでしたが、そのときそれはどうしてなのか、
「痩せたい」
という思いと結びついたのでした。

「やおい」と摂食障害・ダイエットを結びつけて論じる中島本に、非常な驚愕を覚えたのは、そう云った訳だったのですよ。あれはあたしだけの個人的な現象ではなかったのか!と。中島氏は、それを結びつける理由として、実際読者に摂食障害を告白する人が多かったことや、自分の中で少年愛に傾倒した時期と摂食障害の時期が重なっていたことを挙げています。その後にも、詩人の伊藤比呂美や社会学者の上野千鶴子が、少年愛嗜好と摂食障害を結びつけて論じているのを発見するにつけ、「やっぱり!やっぱり!」とわたしの確信は深まっていったのでした。

『コミュニケーション不全症候群』では、「やおい」の構造は次のように説明されています。
少女たちは、諸々の不都合や不自由により、自分が女であることを嫌悪している。であるが、彼女らが愛されたいと欲望する対象は異性であるべく刷り込まれてしまっている。その矛盾の帰結が、「少年として、男性から愛される」という幻想であり、その具現化が「やおい」である(236頁)

確かに幻想の中でわたしは少年に同一化していて、そして、少年の形になるとき、現実の女性的身体、現実の自分の肉は邪魔なのです。ここでまず、痩せ願望と「やおい」的志向は結びつきます。ですがここで注意。わたしが同一化している少年は、現実の少年であるかといえばそうではない。あの喧しくて小汚い、(そして放っておけば大人になってしまう)現実の男の子とは違う。ここでいう少年とは、か弱く美しい少女のような少年です。男の子の身軽さと女の子の受動性を併せ持つ少年像。それをいっぺんに満たすような理想的な身体。その身体像は、自らの拒食症体験を「男に依存したくない(体重や月経のない身軽なものになりたい)」「男に依存したい(痩せて男に支えてもらわないといけないか弱い女になりたい)」というふたつの願望を同時に具現化するものだった、と語る伊藤比呂美のことばを思わせます(『主婦の恩返し』作品社、1990. 95-6頁)

周知の通り、中島梓は栗本薫名義で自らも「やおい」小説を書いていますが、そこでも主人公たちはこんなふうに語られています。


「きみは、五十キロ、あるかね。どうも、なさそうだな――きみは、もっと太らないとだめだね」(『真夜中の天使』1979、下47頁)

「なーに、二葉ってば、その胸。肋骨出てんじゃない。筋肉なんてひとっかけらもないんだから――あんた、五十キロ、あんの?」 (『終わらないラブソング 1』角川ルビー文庫、1991、117頁)


この「50kg」へのこだわりよ。金原ひとみ作品における「30kg」へのこだわりを思わせますが――、それにしても、
「もっと太らないとだめだね」、
い、言われてみたい!!

でも、現実の我が身はというと、むしろ、「これ以上太ってはだめだね」。初潮以降、食べても食べても背が伸びず、腹や胸の幅ばかりふくらむようになりました。
そう、その空想の世界から帰ってくるときわたしは、ああなんと煩わしいじぶんの身体、皮下脂肪、体重、月経に気付きます。そうだった、わたしは体重を持っていたんだった、この煩わしいのが、わたしの身体なんだった。嗚呼、これこそ「自同律の不快」と呼びたいわ、ぷふい! 空想の甘美は、この不快と表裏一体です。
中島氏は、――『JUNE』の第一世代の多くの人がそうであろうように――森茉莉の少年愛小説によって、自らの嗜好に気づいたそうですが、初めて森茉莉の「恋人たちの森」を読み、その世界に耽溺していた最中に親から呼ばれたエピソードを回想して、こんなふうに憤ってみせます。

こともあろうに『夕御飯を早く食べろ』というのです。親は!(中島梓『タナトスの子供たち』筑摩書房、1998、159頁)

ご尤も!ご尤も!(膝連打)
まだ『JUNE』も「やおい」なんて語もなかった60年代に森茉莉が描いた世界は、本邦を舞台にしていながらもフランス映画のような舞台で美しい男と少年が睦み合う、どこにもない世界。そんな世界に陶酔しているときに、「夕御飯」なんて生身の自分の身体を思い出させることを言わないでください。わたしが細く美しい薄幸の少年でなくて、お父さんとお母さんのいる屋根の下でお母さんのつくったごはんを食べて身を肥やしていることを思い出させないでください。

稲垣足穂も言っている通り、ああ、やはり、少年愛の世界は、「ごはん」なんてものから遠くなければならないのです(注5)。「ごはん」を食べることで、わたしたちは、じぶんの重さを思い出し、またそれに集約されている、お母さんに給餌されてきた歴史、お父さんに養われてきた歴史を思い出します。
わずらわしい経血、わずらわしい血縁。出自のないものになりたい。
そういえば、中島氏は、「やおい」において頻繁に「みなしご」が描かれることに着目しています。出自を持たない、どこか薄幸の、かわいそうな美少年たち。



美少年たちは、たいていなんでかかわいそうです。彼らは、女のように美しくか細く、また寄る辺なくあるがゆえに、いつも受難を蒙ります。
女性の好む少年愛の物語には、サド=マゾヒスティックな幻想が多く見られるようです。『風と木の詩』のジルベールは、常に誰か――実父含め――にレイプされていましたし、(所謂少年愛ものとは一線を画しますが)『BANANA FISH』のアッシュも、ひどい性的虐待を受けてきた孤児でした(注6)。そうなると、やっぱり思い出されるのは、フロイト先生が明るみに出してくれたあの空想です。

フ先生は、「少年が叩かれる」などという、サディスティックなのかマゾヒスティックなのかよく分からない空想、しかも空想する本人が登場しないような空想を、なんだって女の子は好んでするのかと、その理由を必死で考えます。
で、おそらく、空想する少女たちは、空想の中で、叩かれる少年に同一化してるんだろうと推測します。やおい少女は愛される少年に同一化しているのだ、と『コミュニケーション不全症候群』で定式化された通りですね。じゃあ、叩いているのは誰?
といいますと、フ先生は、叩いているのはお父さんだ、と言ったのです。
なんとまあ。なんとまあ。(膝連打終了)
折角わたしたちが自らを、出自や血縁から切り離された少年として空想しているというのに、なんと面白くないことを仰るのでしょうか!

ですが、フロイトの論には、ぐっとくる箇所が幾つか。

フ:「君は、もっともっと小さかった頃は、『パパはあたしだけを愛してる』と根拠もなしに思い込んでいたね。そして、あたしってなんて愛されてるのかしら、という全能感の楽園で、他の子供たちがお父さんにぶたれているのを空想してにんまりしたりしたでしょう」

ああ、そんな頃もあった気がします。

「でも、大きくなるにつれ、たとえばその全能感が挫かれるような出来事が起きたりして、そんなことはないのだ、と分かってしまう…」

ああ、そうだったかもしれませんねえ。

「自信を失った君は今度は、自分がお父さんに叩かれるという空想を始めたんだよ。まるで、パパはあたしを愛してないんだ、と自分に言い聞かせ、自らを罰するようにね」

そう……でしたっけねぇ、あんま記憶にないんですが。

「それは、無意識の空想だったのだ」

いや、むいしきとかゆわれても。てか、わざわざそんなイヤな空想するかなあ。

「うん、確かに、それは自虐的な空想であるけれども、その空想の中では、罰と愛が出会っていたのではないかな。振り下ろされる鞭や手という形で、降り注がれる愛が再現されていたのではないかな。だからその空想は、自虐的でありつつ、性的な快につながっていたんじゃなかったかい?」

ああっ、その両価性はよく分かりますよ! そういうの、あったあった。でもそれってずいぶんマゾヒスティックですよね。そんな空想が快につながるっていうこと自体、いけないことをしているようで辛くないですか。

「そうだね、その空想は辛過ぎる。だから自分が叩かれる空想はすぐに抑圧された」

ふむ、まあ、とりあえず抑圧されたってことにしましょう。

「そして君は今度は、男の子が誰かに叩かれている、という空想を思いついたんだ。これが、君の記憶にある、幼年期の空想だよね。叩かれているけれど、それは自分の身体ではない。だが、君はその男の子を見ながら、同時にその男の子に同一化して、愛と罰を享受してるんだ。」

ふむふむ… でもなんで、男の子なの? 自分が叩かれるんじゃ辛いから、っていうだけなら、他の女の子でもいいのに。

「自分が叩かれる空想を抑圧したときに、君は自分が女であることも抑圧し、性別を変えてしまったんだよ」

うーん、だとすると、なんで性別を抑圧してしまったんだろう……?

「あとは自分で考えてください、じゃ」

(あッ、あなたは死んだおじいちゃん!)


死んだおじいちゃんのことはおいといて、父親と少年、といって思い出すのは、やはり真っ先に森茉莉です。

森茉莉は、美しい美しい少年愛の物語を描く一方で、「ファザコン」のイメージも強く持たれていますよね。
デビュー作は随筆「父の帽子」ですし、代表作は父と娘の蜜月を描いた自伝的長編小説『甘い蜜の部屋』です。なんといってもお茉莉の愛するパッパはあの鴎外ですもの。

『コミュニケーション不全症候群』で中島氏は、茉莉の書く少年愛は、父娘関係の隠喩としてのものであったのだと解釈しています(注7)。なんというフロイト的解釈! ですが、確かに。茉莉の少年愛小説は、たいてい、少しおバカっぽい美少年が、知的で粋で金のある中年男に見出され、拾われ養われるという設定になっており、ふたりの関係は、そのまま庇護者と被庇護者の関係です。
男は一方的に少年を愛し、養育します。少年は、給餌される雛鳥のよう。男は、少年を自分の(西洋風の豪奢な)邸宅に住まわせ、趣味のよい服を着せ、教育を与え、食べさせてやります。食べさせる? そういえば、茉莉の書くカップルたちは、意外にも食事をする場面が多いのです。

「今日は時間がないんだが一寸出よう。腹は? 何か喰ふか?」
「モナのサンドウィッチ喰つただけだけど、なんでもいいや」
(略)
「マカロニはどうだ」
「うん」
やがて二人は新橋寄りのマカロニ料理の「イタリアン」の階段を上つた。
(「恋人たちの森」1961、『森茉莉・ロマンII』新潮社、64頁)


「君何か食ふだらう」
さういふと男は右側の扉に消えたが、やがてボルシチ式の肉汁の入つた緑色の瀬戸物の小鉢位あるコップと、大きな銀の匙、厚切りのハムと萵苣を挟んだ烏麦の大きなパンのサンドウィッチ、熟したオレンヂ、茘枝、浅間葡萄を溢れる程入れた籠、ミルク、なぞを運んで卓子の上を横手に払ひ、白いな付近を敷いてそれらをならべて顎ですすめ、自分は棚のウィスキイを下ろして紅茶茶碗に満たした。
「遣り給へ。僕はもう町で遣つたんだ」
俄かに空腹を覚えたレオは男と対ひ合つた長椅子にかけ、スウプの匙をとり上げた。
(「枯葉の寝床」1962、上掲書、112頁)


中島氏は、茉莉体験の最中に親から「夕御飯」に呼ばれたときのことを憤っておられましたが、そこから予想されるイメージに反し茉莉の描く恋人たちは盛大にごはんを食べています。(しかも、食いしん坊を自称するお茉莉の筆だけあって、妙に美味しそう。)
ですが、それは、われわれの「ごはん」とはやっぱり違うみたい。それらは、家庭や月給や古い台所や皿洗いと切り離された、ゆめのたべものです。(そもそも、味噌汁や鯖の煮付けやバーモントカレーでなくて、なんだかオサレなマカロニやボルシチやウィスキイですしね!)

ゆめのたべものなのである証拠に、どんなに貪り喰っていても、少年はぶくぶく肥厚したりしません。食べているけど食べていない。それは、フロイトの言う、叩かれているけどそれはあたしの身体ではない、というのに似てる。彼らは一様に、美しく嫩くて敏捷な身体を持ちます。
その嫩くて敏捷な新しい恋人の身体と、かねてよりの情人である婦人の身体を、中年男・ギドウが比較する、残酷な描写があります。

ギドウは、別れて来たばかりの植田夫人の、肥満した醜い体の妄執が、頭に重くのしかかつてゐるのを、感じてゐた。俯伏せになると、寝台の上に張りをもつて圧しつけられ、熱のあるやうに熱くなつた二つの乳房、紅紫のラズベリイのやうだつた乳頭と乳暈、鳩尾から腹にかけての撓やかな丘は、子供を生まない為に弛みがなく、その上に濃い影をつけて重なる下肢の重みの下に、ギドウとの、もう二年余りになる秘密を隠してゐた弾力のある下腹。それらは最近になつて急激に太り出し、線が崩れて来てゐたのだが、パウロを知るに及んで全く魅力を失つたものに、なつた。(「恋人たちの森」 前掲書、69頁)

更に、女が醜いのは、外見だけではありません。「枯葉の寝床」では、男は、可愛い恋人レオと比較しつつ、こんなふうに女の悪口を言います。

「あの女といふやつが、或種の女の持つてゐる、軽薄さや無智からくる可愛らしさを、レオはもつてゐて、さうしてうるささはない。これだけ愛情を上げたからそれだけのものを返せ、金を使つたから返せといふ奴も中にはゐるさうだ。女位いやらしいものが、どこに、何が、あるんだ。」(「枯葉の寝床」 前掲書、128-9頁)

こんな台詞――女の作者が男の登場人物に言わせた――に頷く女の読者であるわたしは、まるでフロイトの言う、「パパはあたしを愛していないのだわ」と自罰しながらうっとりする少女のよう。ですが、次の瞬間にはわたしはもう「レオ」になっているのだから、なんにも痛くない。

それにしても。――男はここで、女が貸し借りを煩く云々することを槍玉に挙げているけれど ――、だけど、少年だって、自分の身体を男に与えて見返りに「食べさせてもらってる」んじゃないの? 何が違うのよ?

といえば、少年は、自ら欲望しません。いや、欲はあるのだけれど、それは、わたしたちの欲望とは違う。彼が持つのは、じゅんすいな動物的欲求で、それはただ受身に満たされることを待つだけのもの。それは貸し借りの法則とは無縁で、むしろ、動物は借りっぱなしでいいのです。一方わたしたちが欲望するのは、異性愛の制度・時の流れ・それと密接に関わった繁殖の条件などなどの中。わたしたちを肥やすのは、そうした現実の澱です。
そういえば『甘い蜜の部屋』の主人公・モイラも、「愛の肉食獣」と表現されていました。やっぱり「獣」なのです。だが肉食獣だがハンターじゃない。偉いパッパの娘であるモイラは、自ら狩にゆくのでなく、口を半開きにしてまどろんでおれば、愛情と物質的幸福がその口に飛び込んでくるのです。「偉きな男」のもとで一方的に与えられる側であり続ける彼らが住む世界は、フロイトがごくごく幼年期の幻のような全能感の楽園として提示した、「パパはあたしだけを愛している」世界です。
そのあたたかな蜜の部屋で降り注がれる愛と財を享受し、まどろみ貪りつづければよいのです。


であるが、愛の肉食獣たちが愛の肉食獣たりえるのは、やはり愛を注ぐ者がいてこそでしょ。愛してくれるものがいなくなれば、愛の肉食獣たちは存在できません。また、愛と連動する財が費えたなら、文字通り存在できなくなってしまう。これはやばい。愛されなくなったらどうすればいいのか。或いは、愛してくれる父が死んでしまったら?

少年はときどき、男が死んだらどうしよう、と考えます。
そうなれば、生きていけない。でもそこには少し、破滅への期待的予感も含まれているみたいです。永遠に「パパはあたしだけを愛している」蜜月の部屋にとどまり続けるモイラとは対照的に、少年愛小説では、少年たちは、愛してくれる男を失ったり、愛されすぎて折檻の末殺されたりします。

「恋人たちの森」では、或る日少年パウロが家に帰ると、恋人・ギドウは殺されています。
殺したのは、あの太った植田夫人です。
パウロがまず思うのは、昨日までの生活が失われてしまった、ということです。昨日までの贅沢な生活、頼れる後ろ盾が失われてしまったのです。「既うこの家には僕は来られないんだ」「パウロの頭に初めてギドウの死と、自分の現在の境遇との不幸な関連が、登つた」「ギドウの寵愛を受けた後で、単なるボオイの収入で生きて行くことが、どれ程パウロにとつて酷いことか」(91-3頁)。打ちひしがれる彼の様子は、「独りになつた子供の陰影(かげ)」と表現されます。彼はギドウに出会う以前の、かわいそうなみなしごの少年に戻ったわけです。
しかしパウロは、彼に興味を持っているらしい、別の男の存在を思い出します。
彼は、ほのかな罪悪感を感じます。「ギドウに貰つた小遣ひがまだあるから」です(93頁)。ですが、彼の表情には、次第に矜持が取り戻されます。
ここで茉莉は、永遠に閉ざされた甘い蜜の部屋であるかに見えた少年愛の世界に、甘美な裏切りの通路を設けます。少年が死んだ男の家をゆくそのラストは、娘・モイラが結局父の家に帰ってくる、『甘い蜜の部屋』のラストと対照的です。そもそも、少年はみなしごであって、養ってくれる男も父的であれどあくまで父ではないのです。そういえば、「子供がぶたれる」空想はもともとはあなたのお父さんにぶたれる空想だったのだよ、とフロイトは言いましたけれど、しかしだとしても最後には、幻想する主体は「お父さん」を「誰か」に変えてしまっていたのでした。家を出て、一人になったパウロは、「罰された子供のような目」をします。そして、軽やかに口笛を吹きます。あざやかに、借金を、踏み倒すのです。




註1)
「やおい」は、70年代にアニメ・漫画のパロディ作品を描く人々の間で生まれた語で、「やまなし・おちなし・いみなし」の略とされています。これの前史として、「24年組」による少女漫画があり、これと平行して、少年愛を描いたオリジナル小説を掲載する雑誌『JUNE』などがありました。「BL=ボーイズラブ」は「やおい」のメジャー化・商業化に伴って、90年代より使われるようになったジャンル名です。「腐女子」とは、やおい・BLを愛好する女性を指す呼称で、おそらくネット発祥の語でしょう。2000年以降使われ始めた気がします。(※このあたりの歴史的経緯については詳しくありませんので、他の本やウェブサイトをご参照ください)
なお、摂食障害的なものと「やおい」的なもの(少年愛嗜好)の結びつきは、上述のように幾人かの論者によって明確に結び付けられており、またわたしの中でも明確に結びついていたものですが、昨今ではいくらか事情が違うのかもしれません。初期の『JUNE』の作品と最近の「ボーイズラブ」では、作品の傾向が違いましょうし、そもそも、摂食障害のほうでも、その臨床像が変質しているという論もあります(以前のように明確な「女性性嫌悪」が見られる症例が減少している)。双方の変化が対応しているのかどうかは分かりません。

註2)
それに、ボーイ・ミーツ・ガールの少女漫画にも倒錯の種はあったのですよ。たとえば、『小学○年生』に掲載されていた少女漫画には、女の子が性別を隠し男の扮装をして男子校に通う、という設定がありました。男子校では、みな彼女に騙されたまんまラブ・アフェアのようなことが起こるのですが、その展開にわくわくしたのを覚えています。わたしはそれほど多くの少女漫画を読んでいませんが、その少ない少女漫画経験の中で、その後もたびたび、この男子校潜入モノの系列に遭遇しました。機会があれば、「男子校潜入モノの研究(科研プロジェクト)」をやってみたいものです。

註3)
空想に現れるのは、実在の人物とは限らず、架空の人物であることもありました(このあたりがオタク的です)。たとえば、代表的だったのは、「スネ夫」。スネ夫はわたしの初恋の人だったのです。スネ夫はよく、作中でジャイアンにボコボコにされていましたが、わたしの空想中ではそれが更にエスカレートして、ジャイアンのみならず学校の先生や誰だか分からない人物に、さまざまな理由によって、更にひどくボコボコにされるわけでした。しかし、なぜそれが他でもないスネ夫であったのか、のび太でも出来杉でもなくスネ夫であったのか……ということは未だ謎です。

註4)
尤も、こうした空想を初めて報告したのがフロイトであるのかどうかはちょっと分かりません。たとえば、フロイト以前の類似の報告としてわたしの見つけたところではクラフト=エビングが『変態性欲心理』にて、「自分を男であると想像した上で、他の男から擲たれる空想に耽る」という女性の例を挙げています。

註5)
稲垣足穂は、『少年愛の美学』にて、「五穀は血を腐らせる」(河出文庫、22頁)という『三教指帰』の言葉を引いて、超俗としての少年愛と食への軽蔑との関連を暗示しています。もちろん男性である足穂の唱える少年愛と、女性たちが幻想として好むそれとはまた別物でしょうが。(※ちなみに、春陽堂版「三教指帰」を確認してみたところ、正確には「五穀は腑を腐す」となっていました。道教の求道者への忠告です。)

註6)
このように、「やおい」に性暴力の描写が頻繁に見られることには批判もあり、様々な批判の中には、実際のゲイの男性からの批判もあります。この件に関しては別のところで何度か書いたためここでは触れませんが、しかしそうした幻想が批判されうるものであるにせよ、まず、にも関わらずそうした幻想を持ってしまうじぶんって何、というところにこだわりたいと考えます。

註7)
茉莉自身も、「恋人たちの森」を書いたときの幻想について、それが父への思いと結びついたものであることを、以下のように語っています。「その二人の青年は、魔利が平常父親の白い塑像をそこに夢みる、鈍く薄い色をした河の辺の、月桂樹(ロオリエ)の生ひ茂つた、透明な灰色の世界と、同じ場所のやうに似た世界で、神話の中の男神と、ナルシスとのやうに、(略)絡みあつたのだ、さうだ。」(「黒猫ジュリエットの話」(1963)、『森茉莉全集2』pp.309-10)。ちなみに、この「父親の白い塑像を夢みる世界」とは、あの世を示すことが他の文章で分かります。






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