シフォン論#3 カロリイ計算と体脂肪測定だけの日々




ちょっとしたダイエットなら多くのひとがしています。メタボ対策。食生活の見直し。それは病気とはちがう。健康的な節制であれば、適度な節制であれば、それは拒食症やなんかのやまいとはちがう。
そういいながら、痩せたいな、とちょっとおもうとき、あの子みたいになりたいな、とちょっとおもってしまったとき、わたしはその実もう既にin病です。
そのようにおもってしまった瞬間から、ひときれのたべもの、1キロカロリーに思考が病的に固着、じぶんの脂肪、じぶんの皮下についてる脂肪がどれだけ剥がれてもまだ多すぎるという観念が次第に強迫じみてくる。
たとえば『2ちゃんねる』のダイエット板や「ヤフー知恵袋」を見てみれば、同病なかまにいっぱい出会えます。私身長○○cmだけど○kgって太ってますか? 身長○○cmなら体重は何kgがウエストは何cmが太腿サイズは何cmがいいのかな? ○○cmで○kgなんてありえないデブですよ。○kgでもまだ太ってますか? 痩せるために寄生虫飼おうかな。海外に痩せ薬発注したひどい副作用があるらしいが痩せるためなら死んでもいいですよね
そんな思考回路がin病でなくてなんなのか。

日がないちにち食べること食べないこと、痩せること太ることについて考える、わたしが食にこだわるとき、それはどうしたって単に健康のための適度な節制でありえず、それが必ず過剰な何か・ヒステリイ的ななにかになってしまうのは、そこに誰かの視線が、正確に云えば誰かの視線へのじぶんのよくぼうが介在してしまうから。見られる自分への意識につながってしまうから。
だけどそれが、単なる美容志向とか単なるモテ願望であるかと云えばそうではない。




摂食障害の女性または摂食障害から脱却した女性へのインタビューを集め、そこから摂食障害とジェンダーの関係を論じた、浅野知恵著『女はなぜやせようとするのか――摂食障害とジェンダー』(勁草書房、1997)を読みました。浅野さんは、フェミニストの社会学者です。

女はなぜやせようとするか、というテーマのもとで書かれた論考は他にも数多あって、そのように、痩せ願望を問題とするときそれがたいてい女というジェンダーと結びつけて語られるのは、ダイエット産業が主なターゲットとしているのは女性であり、また摂食障害を患う人の多くも女性である、という状況があるからでしょう。(摂食障害の罹患率の男女比は、女:男=10:1とか20:1とか言われています。尤もこれは数年前に聞いた統計で、男性の摂食障害が増えつつあるといわれる昨今では、この比率も変わっているかもしれません。しかし、インターネットでブログやコミュニティを探索してみれば、現在においても、少なくとも罹患をカミングアウトしている人は女性が圧倒的多数であるようです。)
では、それは何故なのか。
病でなくてなんなのか、と言ったしかし、わたしたちを病ませるものは何なのだ、というわけです。

で、女はなぜやせようとするのか? と問いの回答としては、「女らしくなるため」説と「女らしくなくなるため」説があります。
すなわち、女は美しくあるべきだという圧力のせいで痩せたがるのですよ、という答えと、女性性を嫌悪して女らしい身体を否定する人が痩せたがるのですよ、という説です。前者を「女性性志向説」、後者を「女性性嫌悪説」と便宜的に呼んでおきましょう。
本書の著者は、主に前者「女性性志向説」の立場に立ち、「かわいいちいさなおしゃれな女の子」像ばかりが良き女の子像として望まれるような社会が、わたしたちを(痩せ願望のエスカレート形態としての)摂食障害に追い込むということを、インタビューを通じて明らかにしてゆきます。
浅野さんには、「潜在的商品としての身体と摂食障害」(『性の商品化 フェミニズムの主張2』江原由美子編、1995、勁草書房)という別の論文もあり、そこでは、常に性的商品としての選別に晒されることでわたしたちの身体感覚が不健全に圧迫されている状況が、批判されています。

確かに確かに、社会からの視線の圧迫、というのは実感的に納得できるところです。いいや男は実際はぽっちゃりした女の子が好きなんだよ、だから女の子がさかんにダイエットするのは間違ってるんだよ、なんてのはよく言われることですが(ってかそもそもそれもまた勝手な言い草なわけであるが)、それでもやはり、一般的に正しい女の形とされている形に近づくための痩せる努力を不断に続けることは、わたしは商品になる意志があるのですよ、わたしは女であることから降りてはいないのですよ、というアッピールになり得ましょうよ。
よく、「ダイエットして痩せた途端男の人が優しくなった」という話を耳にしますよね。そんな単純なことはなかろう、とお思いでしょうが、これは経験上本当のことであって、つまり彼らは、「君は女なんだね(女であろうとしているんだね)、ならば女扱いしてやろう」と認めてくれたのでありましょう。
まこと、人は女に生まれるのでなく女になるのだ、ですが、女になったその後も女であり続けるべく努力を継続せねば女として認められないとは! しかも認められたら認められたで、諸々の面倒が襲ってくるとは。


S: しかしですね、磨かれた「商品」であるためのダイエット、と同時に、しほんしゅぎから逃れるためのダイエット、という可能性がやっぱあるとおもうのですけどね。使用もされず交換もされないのに価値のある、そうした身体像、それを得てあちらがわに行くことが、究極的にはわたしたちの理想だったのではないですかねえ。

A: 流通しなくてすむたったひとつの財のような身体を、ダイエッターは獲得しようとしているんではないかと?

S: それをみなさん成熟拒否、とか、女性性嫌悪とか言うてきたんでしょ。せいじゅく、ってつまり、流通の中に入ることなんですかねえ。じょせいせい、って交換されることなんですかねえ。こうぞうしゅぎですねえ。で、さっき言ってた後者の説のほうですけど。



後者の説――「痩せ願望=女性性嫌悪」説――を主張する人のうちには、アンチ・フェミニズムの立場に立ってそれを主張する人もおられます。
つまり、「女性の男性化を促すフェミニズムのせいで、女たちが自分の女性性を否定するようになったのだっ」というような言説です。女性の身体は本来男性と対等には出来ていないのですよ、ですから無理をして男並みになろうとすれば病に陥るのは当然なのですよ、しかしその代わり貴女方にのみ与えられた素晴らしい特権(妊娠やら出産やらのことらしい)を肯定的に受け容れれば、摂食障害になぞ陥ることもないのではないですか、と、いうわけです。

女性性志向説の立場に立つ浅野さんもまた、ところどころで後者の「女性性嫌悪」に言及しています(『なぜ女は〜』170頁、「潜在的商品〜」80頁)。そして、女らしくあれという圧力および女性性の嫌悪ふたつながらの渾然とした圧迫を、摂食障害を生み出すものとして認めておられますが、その女性性嫌悪の出所を、個人の病理や「女性の男性化を促すフェミニズム」に帰してはいません(「フェミニズム」が「女性の男性化」を促してきたのかどーかはとりあえず措いておくとして)。そうでなくて、女の身体を持つがために不当に貶められうるような社会的状況こそを問題としているところが、上のような言説との違いです。
むしろ、摂食障害からの治癒過程におけるフェミニズムとの出会いの重要さが、著者の主張の一つです。
実際に自分が見てきた摂食障害からの回復パタンとして、それまで個人或いは家族の病理に帰されてきたその病を「社会的文脈から定義しなおすプロセス」があり、「多くの人がそのプロセスの中でフェミニズムに出会っている」と、浅野さんは言います(『なぜ女は〜』147頁)

ですが、さらに、ここで。わたしが興味深く感じたのは以下の点です。
著者も注記している通り、インタビューを受けている女性たちは皆、もともとフェミニズム的なものに馴染んでいる世代の人たちであり、その中でもとりわけ意識の高い人々であるのですが、興味深いのは、彼女らが、その意識と、痩せたいという自分の欲求との間の矛盾に気づいており、その矛盾に苦しんでいるという点でした。


たとえばその小学校のときに「ふとっちゃいけない」って思っていたわけだけども、そんなふうな価値観を内面化していることは親に対しては絶対に悟られたくなかったのね。だから葛藤はすごく大きくって、それを親にさらすことはできなかったから、かなり大きかったと思う。(『なぜ女は〜』37頁)

大学時代、Cさんは新聞会に所属し、社会問題に対する関心を強く持っている人だった。社会的につくりあげられている女性美のおかしな点についても、以前からよく認識していたつもりである。Cさんは、自分が<やせてきれいになりたい>と思うことに対して、<男のための女というか、いま社会でつくられている男女差のある状態を自分で認めて、肯定することにつながっちゃうんだ>と感じている。そして、<「やせてきれいな女がいい女なんだ、女として価値のあることなんだ」っていう社会の、ほんとは自分がきらっている概念なのに、それを肯定してしまってるんじゃないか>と批判的に捉えてもいる。しかも、このことは、摂食障害だった当時にも強く感じていたことだった。(同上、73頁)



彼女らは、痩せてきれいになりたい、という思いを男社会から押し付けられたものとして否定しながら、それにもかかわらず、痩せるための努力をしてしまい、そんな自分に矛盾を感じています。
ほうれ見ろ、きれいになりたいと思うのはやっぱり女性として自然なことなんだよ、なぞと、アンチ・フェミ論者であれば言うかもしれませんね。浅野さんはもちろんそうは言わず、「(ダイエットに対して)たとえ批判的な意識を持っていたとしても、やせていること・きれいであることが女性の日常に占める重要性がかんたんに減るものではないことを、このことは示している」(同上、74頁)としています。

確かに痩せていることによって得られる「社会的報酬」は大きなものです(先に述べた、女であろうと努力している女として認められることによる諸々)。そして、社会で生きていこうとする女性であればよりいっそう、社会的報酬を必要とするでしょう。これは、その通りであると思います。
ですが、彼女らが痩せることから降りられないのはそれだけなのでしょうか。わたしは、どうも、それだけでなくて、それにくわえて、痩せること、痩せた身体を手に入れるということ自体が、こうしたあらゆる矛盾を止揚し解決するようなものとして聳え立ってもいるように思うのです。それゆえにわれわれは内なる矛盾に気づきつつも、痩せることから離れられないのでないかなあ、と。
だってそれは、女性性への志向を満たすと同時に、女性性嫌悪をも満たすものであるとするなれば、わたしたちは痩せることによって、すべてになれるのでしょう。更に、もっともっと痩せたなら。



ほほう、つまりあれですね! 「ダイエット」――痩せた身体を獲得すること、という鍵が、全てを解放に導く一転突破のイデオロギーとして想定されているわけですか! マルクスなら「革命」ってやつですな!

と所長が要約してくださいました。所長の要約はいつも的確です。

S:(そう、そして、更にもっともっと痩せて身体が無くなってしまえば、矛盾するこのあたし自体も無くなってしまうのだもの!)

だがしかし、イデオロギーというものはすべて背理を抱え込んでいるものであるのではないですか。

S: あ、そう、そうなんですよ、そこであれなんです、病気萌えの件なんですけど。所長もよくご存知の。



そう、さらに、摂食障害に関して、本書で触れられていないトピックとして、ずっと気になっているのは、男性側の「病気萌え」視線とでもいうべきものです。

たとえば、或る知人♂が、「拒食症の女の子ってなんか放っておけへんし気になる」と語っておりましたが、無意識をすぐさま身も蓋もないまでに言語化するオタク文化によってそれが「ヤンデレ」属性などと名付けられるより前にこうした感性はあって、しかも摂食障害の場合そこに、「女性性嫌悪」という病因論が絡んでくる点がツボのようです。
思うにどうも、「女であることに違和感を持つ女の子」に或る種のゥロマンティークな憧れを持つ男性、という一群がありますよね。「ボクっ娘」萌えにも通じるところの、私は女よ、ということを売りにしない(したくない/できない)女性への、清浄な憧れとほのかな性的欲望。(あるいは彼らは単に、いかにも女らしい女は畏い、というだけなのやもしれませんが、それはあんまり陳腐な心理ブンセキですよね。)

その一方で、女の子側(病む側)にある、病への憧れ文化、みたいなもの。
浅野さんのインタビューでは、「過食嘔吐」などという「若い女性に似合わない陰惨な」ことをしてしまうことで余計に自分を責めてしまう女性たちの姿が書かれておりますが、その一方で、むしろ、病気自慢文化というものもあるではないですか。ネット普及以降目立つようになった、リスカ痕見せびらかしや(注1)多重人格「なりたがり」。戦前の少女雑誌で大人気だったという、胸を患う少女像。またわたしが青春期愛読した倉橋由美子の小説の主人公たちは、世界に違和を感じずにいられぬ自分たちの特権性を誇示するかのように、誇らしげに盛大に嘔吐していました。最近では、金原ひとみの30kg小説に、ナルシシックでゥロマンティークな拒食が描かれています。

とはいえそれもやはり、男からの病気萌え視線に応えて女が病む、というだけの単純な共犯関係であるかといえば、いいやどうもそれは違うような気がしております。どう違うかはまだ上手く言えないのですが。





(注1)「見せびらかす」やつは真に病気に苦しんでいないのだ、というつもりはありません念のため。病を見せびらかしているという理由での詐病認定は、非本質的であると考えます。また、病む人すべてが病気自慢文化の中にいるとも思っていません。(実際のところ殊にメンタル系の病は、露骨に自慢する人より隠す人のほうが断然多いでしょう。)

(謝辞)斜体文字部分は、所長からのメッセイジより一部引用させていただきました。


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