シフォン論#10 僕たちは遺伝子の乗り物か(2)



「さふいふ社会を来させるために、
 自分たちは次に来る者達の「踏台」になつて、
 さらし首にならなければならないのかも知れない。」

「夫達は誰のためにやつてゐるのだ。
 お恵は変に淋しい物足りなさを感じた。」

 (小林多喜二「一九二八年三月十五日」岩波文庫)



1. 生殖年齢も半ばを過ぎて

思へば当時、流産の夢ばかり見ていたものだ。
妊娠したようだ、しかし、夢の中の私は(現実の私と同様)自分が産みたいのか産みたくないのか分からない。どうしようか、と迷ううちに陣痛らしきものが始まるのだけど、何ぶんにも実際に陣痛を体験したことが無いものであるから、断続的に訪れる頼りない刺激を、「これが陣痛というものかな?」と戸惑いつつやり過ごしているうちに、何かが分娩されるのであるが、分娩されたそれはいつも、赤黒いゲル状の、人のかたちを成していない、いわば水蛭子のようなものなのです。
夢の中で私は、「ああ、産んでよいのか産むまいか迷いながら産んだから、中途半端なものが出てきてしまったのだな」 と妙に納得しつつ、どこかほっとしていたのでありました。

さて生殖年齢も半ばを過ぎて、今頃驚くのは、人間の再生産サイクルは意外に短い、ということであります。みんな知ってたんか? 頭ええな。
多くの健康な若者が、死をずっと先の、自分とは無関係なほど遅延されたずっと後のこと、と信じていると同様にあたしときたら、産むべき季節の到来は、いつか行くかもしれぬお伽の国ほど遠いことであると感じつづけておりまして、そうしている間に初経から二十余年が過ぎた。
その間わが身体は(わが意志と関係なく)孕みうる身体であり続けてきたわけだけど、だがそのことが、「産める」ということイクォールであるという実感は、ついに得られなんだ。
流産の夢を見ていた高校生の頃は実際にも、「自分は未だ産むときではない」と思っておりそれは社会的にも「正しい」ことであるらしかった。高校生の妊娠は、社会的にも不都合なこととして多くは眉を顰められる。生物学的に産めることが社会的に「産める」こととはイクォールで無い。二十歳前後となると一転、産む産まないの選択は、親や先生の管理下から、突如個人の自己責任に委ねられ始めます。無論諸々の経済的・社会的障壁はあれど基本的に自由意思である。で、自分の意思はといえば、産みたいのやら産みたくないのやら分からない。だがいつか欲望がはっきりと形を成すはず、社会的なそれと自分の欲望とが「自然と」一致し、どうしたいかが見えるはず、たとえばフロイトの鼠男がある日自分の欲望と人生を生き始めた(とされている)ように、と漠と信じ、ところがそう信じているうちに、卵子の残り玉もそろそろ打ち止めリミットに近づきつつある未だもって、分からない、産みたいのか産みたくないのか、産みたかったのか産みたなかったのか? 我、何を欲望するか、と問うてるうちに日も暮れた。そう、「私の身体は頭が悪い」。

あらまあ、優雅なご身分ね、ときみは言うだろう。昔の人は、またはあの国の人は、と、きみは言う。産む産まないの意志にかかわらず、あるいはそんなことを考えることもなく、生産力として孕まされ産まねばならない/ならなかった。或いは、産みたくとも身体的事情によって産めない人がいる。そんな中、自分の欲望をめぐって戸惑えるだなんて、ご立派ね。また、或いは、かわいそうね、ときみは言うだろう。ひと昔前ならそんなふうに悩まずとも、強固な性別役割分業と世間の圧力によって、もっともっと昔ならただ生物的本能によって、自ずと道は引かれていたであろうに、自由の刑に処せられた現代人よ、お気の毒ね、ときみは言うだろう。
いずれの言い分も、全力で憎む。



七〇年なら一瞬の夢さ
七〇年なら一瞬の夢さ
やりたくねえことやってる暇はねえ
 (「ブルースをけとばせ」/the Blue Hearts)



2. 労働者諸君よ、

歴史的地域的にはまったく限定的なはずの、しふぉん主義という形態に則った倫理道徳を私たちは普遍的なものであるかのように信奉していて、ときどき冗談みたいな世の中なのにな、と思ってみても、その冗談にのっからなければ餌を得られない。まったく「アタマにくるぜ」であるよ。
希望を語ることでなく、現代の我々がおかれた絶望的状況を分析し提示することによって、世界の労働者たちを元気づけるような、と、Y氏が構想を話してくれた来たるべき書物(まだ来ない書物)の構想を未だ忘れてはいない。
それはなんて時代錯誤的だろう、と自嘲なすッたその頃より、その絶望的状況が上向いたという話もついに聞かれず、ますます以て。

時は流れてテン年代の日本では、排外主義が話題である(いや昔からそう変わっていないのかもしれないが)。
その、ネットの写真や街で見かけた排外デモの演説やプラカード、それらに或る種の、猥褻さを感じるのは何故なんだろう。
子供の頃郊外のガード下で、真っ赤なスプレーで書かれた、誰かを中傷することばを見た。中傷のことばだということは何となく分かったが、知らないことばであったそれは、後で思えば、被差別部落と女性に対する差別のことばであった。私はその落書きを、見てはいけないもののように感じ目を背けたのであったが、皮膚の内側が騒ぐような一種独特の感じは、濡れて河原に落ちているエロ本を見つけたときと同じ感じだった。
差別の猥褻さ、それを、人種差別は性欲の根源です、と歌った遠藤ミチロウのことば以上に短く表したことばを私はまだ知らない。
で、猥褻とは、である。


子供の頃、何故ユートピアが早々に到来しないのか不思議に思っていた。
もちろんユートピアなどという語は知らなかったが、そう、みんな平等で・資源を分かち合い・争うことなく・国境も差別もない素朴な世界。簡単やん? 国境をなくすことにしたら国同士の争いもなくなるよ。国境なんてもともと無かったものでしょう? 核兵器におびえて暮らすなんてみんなイヤなはず。じゃあ、いっせーのー、で棄てたらみんな得するんやん?なんで明日にでもそうせーへんの?
と親に疑問をぶつけてみたらば、
阿呆かいな、町内の合併でもえらい揉めるねんで、国同士の境を無くすなんて夢のまた夢やな、
と笑われたのであったが、私は10歳当時の自分のこの考えが、甘い考えであったとは今もってまったく思わず、甘いのはむしろ、そうした明らかに理性的な方向に向かわないことをだらだらと許しあい、「これが現実や!」とかほざいとる世界のほうであり、実に子供は論理的かつ理性的で大人は非論理的非理性的である、と今でも思うのでありますが、10歳当時の私が想定していなかったファクター、いわば人間を非論理的非理性的たらしめる大人のファクターがふたつあって、それはひとつに信仰、ひとつに人間の欲望、とりわけ性的欲望、というファクターであった。
ユートピアが挫折するのはいつも性と結婚においてである、と先輩も言ったよ。



思えば信仰というファクターによって当時他ならぬ己が家庭内に深刻な分断が起こっていたというに、何故それを無邪気に無視できたのか、これは10歳とはいえわたくしの認識不足でございましたが、人の欲望、とりわけ性に関する欲望というファクターの存在は、まったくの黒船的打撃であった。
それの存在を知ったのはいつだっただろう。あのいきものたちは、毎日眉間に皺を寄せてお勤めしたり子供を叱ったり、おやつも食べず絵本も読まず、何が楽しくて生きてるんであろうか? とふしぎに思っていた大人という生き物が、どうも性生活というものをもっているらしい、そしてそれはときに、それと引き換えにいろんなものを我慢したり狂わせたりするほどにでかいものらしい、と知ったこと。
直に思い知った黒船的場面は今でもよく覚えておって、或る尊敬するお人が、己の理想を語った後に、「じゃあ理想通りにすりゃいいんじゃないですか?」という問いを遮って、「でも性欲があるからねえ」と言うたひと言であった。かくも理性的で理知的な人にとってもそれはそんなに大きなファクターであったのか、そしてそれが肉体に根ざす欲求であるからには、私の理性や理屈では太刀打ちできぬ、と初めて純然たる無力を知って、茫然とした。他者を知らぬ乳児は全能感に包まれているけれども、このとき私の全能の最後のかけらが砕けたのでありました。
さらに、事態をややこしくするのは、それが肉体に根ざすものでありながら、それが純粋に肉体的なもののみで無い、という事実であるよ。

そう、人間の性は、単に肉体的に快楽を得てそれでハッピーというもんやなくて、さまざまな後ろ暗いもの、京都の町屋の縁の下に赤黒くとぐろをまくねばねばとしたものと結びついていた。そしてそれは縁の下から這い出して、いわゆる狭義の性的事象に留まらぬ、いろんなものを汚染していた。

と、いえば、なんでもあなたは性に還元する、と言われるやろか、でも、そうじゃない。なんでもが性に還元されるのでない、性が社会に汚染されてるんだもの。
イエイエ、汚染などといえば、では汚染される前のなにか健全でまったき性、のようなものがあって、搾取されたそれを奪還するのだ、って話になるが、そうしたものがそもそもあったのか私は知らない。そうしたものがそもそもあって、それは社会によって歪められたのだ、ってライヒなら言うだろう。でも、社会によって歪められてない状態とか、想像つかないし。とまれそれは最初から汚染された状態で目の前に現れたのであって、汚染が先か性が先か、はここでは問わない。
「性」は人生に現れた最初から既に外傷的であって、まったく誤解を恐れずいえば、わたしたちは皆幼児期から、世界によって軽く性的に虐待されている状態だ (とこのように述べたからといって、実際的な狭い意味での「性的虐待」の影響力を低く見積もる意図はないことは付け加えておきたいけれども)。



「近代においてサドマゾヒズムがしだいに重要性を増しているのは、この(剥き出しの生と政治的実存の)入れ替わりに根がある。というのは、サドマゾヒズムとはまさしく、相手の内に剥き出しの生を現出させるセクシュアリティの技術のことだからだ。」
(アガンベン『ホモ・サケル ― 主権権力と剥き出しの生』 高桑和巳訳、以文社、2003. p.186)



わたしがまだ子供の頃、女の子が、苛烈な暴力の末に殺害された。新聞を読みながら、祖母は顔を紅潮させ、あんたは悪い男の人についていったらあかんえ、と言うたのであった。
時が流れ高校生の頃。オウム真理教顧問弁護士の取材を読むために買うた男性週刊誌を私はぱらぱら眺めてた。アダルト・ヴィデオのカタログが、男の人の雑誌には付いている。へえ、と好奇心で以て眺めたその広告の中に、その事件をモデルにして作られたらしきAVを見つけた。
実際に起こった、ひとつの命が卑劣な奪われ方で奪われた事件が、商品になっている。商品として他の商品と並列に値段をつけて売られている。それはポルノ作品であるから、性的興奮の喚起および満足を目的にして作られているのである。皮膚の内側がざわざわとし、被害者の身内が知ればどう思うか、と心が痛んだ、がここでは倫理に反するそうしたものは取り締まるべきだ、と主張したいわけではない。皮膚の内側がざわざわとしたのは心が痛んだからではなく、それが商品になっていることの必然性が、私にはとてもよくわかったからである。些細ながらこれは象徴的に外傷的な出来事であって、外傷的であるというのは、残虐な事件が商品になってた、ということ自体についてではなく、それが商品になっていることの必然性を自分がよく解ってしまった、ということに対してであった。


女、汝は永遠の謎だ、とフロイト先生は言うた。だが男、君たちこそ謎ではないのか。愛に満ちた行為を行う器官と、暴力行為を行う器官が同一であるとはどういうことなんだ。と私は思うのでした。
が一方で、私は(その謎に眼を向けないことを非難はしても)その謎自体を非難できない。そうした男の性の気持ち悪さを、気持ち悪い!と非難するやり方もあるし、非難していいんだ、ということは、たしかに男の欲望が男のものであるというだけで許容されがちな男性中心社会においては意義あるものではあると考えるけれども、でもその気持ち悪さは、私の気持ち悪さでもあるのだもの。ぞくぞくするのは暴力とエロ、とかつて端的に赤痢は歌ったけれど、まさに、で、なんで暴力とエロが結びついちゃうのか。私はまったく以って深く物事を考えず学問にも向かない非知性的な人間だけれど、書いたり考えたりせなあかん理由があるとすれば、その結びつきに対する知的防衛が論理化が必要だからでありましょう。でなくては私たちはあっという間に、どこからどこまでが人間なのかどこからどこまでが肉塊なのかの人間の尊厳ひっぺがしゲームの興奮に浚われて、人間だか肉塊だか解らない境界におっこちてしまうよ。おっこちたらええがな、という説もあるけれど、だが無自覚におっこちたとき、それで得するのはワタミの社長みたいなやつじゃん。


3. 電子の海の剥き出しの水蛭子


産む産まないは女が決める、といったフェミニズムのテーゼは、それはとても重要な、色褪せないテーゼである、と私は考える。
とはいえ、一方で、私が決める、と述べるところの 私 は 私 だけによって構成されているわけでないのだった。

きみは何を欲望するのか、とかれは常に問うていた。
きみが何を欲望するのか分からないので、ぼくはどうしてよいか分かりません。で、答えるのであった。
それはあたしも同じなの、「あたしの欲望は神の欲望です。だが神があたしに何を望むのか分からない、だからあたしは何を望んでいいのか分かりません」。
とかなんとか言うてるうちに、神も生きてるのかいないのか、かなり怪しくなってきた!
昨今その見えざる御手も、あんまりうまくは動いておられぬようだし。それともみんなはちゃんと、神の声を聴いているのかな?

白い たまご しょぼい 人ね
白い たまご あなたの こども
今すぐこわして 今すぐこわして
(「白いたまご」/神聖かまってちゃん)


道具立てはこんなに変わっても、わたしたちの信仰行動は呆れるほど変わりなく、人々は電子の海中にせっせと祠を建てる。
主に10代の少年少女たちが性に関する悩みを相談するBBSを覗いたことがある。
避妊の失敗を嘆くスレッドや、生理が来ない不安を語るスレッド。その中で最もレスの多いスレッドは、「水子の祟り」に就いてのスレッドであった。
「中絶してから、水子が憑いてる気がするんです」と訴える女の子。一方で、「排卵日って何月何日ですか?」という質問。さらに一方では、人工妊娠中絶体験を語る女性たちに対し、ひたすら「殺人鬼」「ビッチ」「生きる資格なし」と繰り返し続ける匿名者。
科学の時代も極まった、輝かしい21世紀のIT技術、洪水のように膨大な情報の中で、彼女ら、そして彼らにとって本当に必要であろう情報だけが、すっぽりと欠落しており、また、中絶体験を語る女性たちは一様に、「一生この十字架を背負って生きていかなくてはならない」「一生幸福になってはいけない」「赤ちゃんと一緒に死ねばよかった」と、90年代初頭にわれわれが暗い視聴覚室に女子のみ詰め込まれ教え込まれたのと同様の、定型句でコラージュされた「愚かな罪の女」像に忠実だ。そしてそのように語らねば、読み手も納得しないのでしょう。
100パーセントの避妊法など無いからには、望まぬ妊娠は、孕みうる女、或いは、孕ませうる男であるならば、「誰にだって起こりうること」の筈だ。だが、反復されるスティグマの中で、中絶した女性たちは、「こっち側」にいられなくなることになっている。それぞれ固有の顔を持ち、笑ったり怒ったりし合える「こっち側」から、罪と罰の定型句と沈んだ横顔しか許されないのっぺらぼうの青白い「あちら側」へと追放されてしまう。
実際は望まぬ妊娠の理由や中絶前後の感情など人の数だけあるであろうに、これだけの多様な情報の可能性の中で、それらは一向に語られず、また、それを避ける実際的技術に関する情報も語られず、語り古された三文小説だけが反復され続けます。


新しいメディアの中の、古い身体。古い、といったってそれは、自然の、という意味ではなく。
ひやりとした時、計算した。初期人工妊娠中絶の手術代、国立大学半期授業料の半分。
時給850円としましたならば、云々。


最新のテクノロジーやクールなビジネスの中に、再生産という超原始的ファクターがぶちこまれており、それは存在し無いことにされる一方で、それは厳密にあるいは雑に管理されている。
既に性が自然などでない一方で――それは産休や性産業やメディアや時間単位数千円のご休憩とつながっており、おまえと俺との間には0.03mmあるいは0.02mmの原料調達、ゴム会社、ドラッグストアの労働法違反の介在――その一方で、自然な性を取り戻せ、というあなたがた。でも、既に自然な性など無いということを忘れて(あるいは意図的に忘れて)それが主張される限り、罠やで。

2013年の昨今世間では卵子劣化論がお盛んです。何も決定できぬまま一卵去ってまた一卵、受精せぬ卵子を見送ってきたわたくしのようなぼんやりを殲滅するためのキャンペーン。そこでは早期に欲望を決定するべく啓発されるらしいが、そこで想定されている欲望は一種類であって、それが、そもそもべつに産みたくなどなかった人、産みたい気持ちはあったけれども制度上困難だった人、他の事情と秤にかけて甚大な痛みとともに断念した人、そんな大袈裟なもんやないけどなんとなくの痛みとともになんとなく見過ごしてきた人、そもそも女になりたくなかった人、というあらゆる個別性やグラデーションを無視するものである限りにおいて、悪質で反動的な流行であると考えるし、中には性教育が避妊教育にばかりかまけて再生産義務という「最も大切な」事実を教えなかったことを攻撃をする人もいるけれど、それは先人がそれこそ命を賭して獲得してきた知への冒涜であると考える。
私たちはたしかに、神の声を失った。とはいえ「昔の人」は神の声を聴いていたのだろうと思いこむのもずいぶんなノスタルジーでありましょう。ノスタルジーはけっこうだが、勝手なそれに基づくあの頃はよかった論は、私の母や私の祖母の、涙や苦悩や怒りを無駄にすることだ、と私は思う。いやこの思いもまた現代における幸福の価値観や自由や自己決定こそ最上という価値観に依拠して過去を測る傲慢に属するかもしれないのだが、その危惧をふまえたうえでも。





4. n+1個の性(笑)

たとえば地球に食糧危機というのがありますが、オウム食みたいにみんなで食糧の摂取を少しずつ減らしていけば、そういう問題はうまく解決するのではないかと言われました。供給を増やすのではなく、身体のほうを変えていくわけです。 (村上春樹『約束された場所で―アンダーグラウンド』講談社)


彼女が制御できるのは、自分の身体の脂肪くらいなもの。それを制御することを、世界に投影した。或いは、100円カッター片手に駆け込むアジールは自分の手首数センチの薄い皮膚だけ。切り刻んだ画像がウェブを通して配信される。通信会社が儲けています。製薬会社が儲けています。ダイエット本出版社が儲けています。
自分の身体を造り変えることで世界を変える、I can fly 、井上嘉浩は言ったのだが、その飛び方はもう使えなかった。


唐突であるが音楽について。
音楽とはしばしば外傷に相似でありますが、もうそんな気分も忘れかけこれを以って少女期は終焉かと思った頃、不意に蘇ったのは『THEE MOVIE』を観た帰り道であった。映画館の帰途急に自転車が火を噴いて、あ、これは、あれや、と思い出したのであった。11歳や14歳のときに感じたことのある高揚であるその高揚、あ、マスキュリティへの同一化みたいなものが何か自分の原動機だったのだな、と思い出したのであった。

同じくミッシェル体験を書かれた文章に、これだ!と思った文章があったので引用させていただきましょう (2013年夏時点でリンク先イキ)
http://www.kiwi-us.com/~amigo/otakuuta/smokinbilly.htm 
「やっぱロックは男根である」。この書き手は、ミッシェルの「スモーキンビリー」体験を引いて言っておられる。「女にロックンロールができるか。 クリトリスじゃ足りんのだよ」。そう、よくぞ言ってくれました! そうだ、その気分だった。
これは多分に確信犯的(誤用ですね)な男根主義であって、この名文の去勢の如きオチがそれを教えてくれるのだけれども、でもあの高揚をずばり言い表すんならそう、そういう感じ。ラカン的に「ペニスとファルスを混同するな」とかなんとかつっこむのがお約束なのかもしれないし(だいたい「ファルス」という語を選んだ時点で既に混同されてるんであるが)、もちろんそれは幻想の男根であって比喩としてのマスキュリティなのだろうけれど(知ってるよ、オーライ、君たちの現実の身体はもっと厄介だ)、完全に比喩というわけでもない。


―― ポリティカルコレクトネスを考慮いたしまして、フライ!フライ!バード・パーソンズ、と歌いますか。
―― でも、それじゃかっこよくないねん。
(ちなみに『チキンゾンビーズ』の詞にはあの高度に性別化された日本語一人称が一切無いことに気づいたときの、わたくしの幸福な驚愕よ)


マスキュリティへの同一化のあり方として、ロック少女と腐女子と呼ばれるひとたちはよく似ている気がする、と以前にも書いたっけ。そんな腐女子像ももはや古いものかもしれないけれども、しばらくこの実感に固執させていただく。
『耽美小説・ゲイ文学ブックガイド』(白夜書房、1993)という本で、耽美小説(今でいう「BL」とほぼ同義)と呼ばれる、女性による男性同性愛を描いた小説群について論じて栗原知代氏は、そうした物語は「ライナスの毛布」であると批判的に述べている。
ライナスの毛布というのは、いつか卒業しなくちゃならない過度的対象だ。栗原氏は、かつて自分もそうした物語を必要としていたが、もうそれを必要としなくなった者、「卒業」した者の立場から、そうした物語の意義を認めつつも批判して、次のように言う。
耽美小説にはまる女性とは、男社会の中で男に求められるような女であることに違和感を抱いている人たちである。だが同時に、一方的に受身的に愛されるという、男社会の中で女に割り当てられた物語を手放せない人たちでもある。そんな物語にはもううんざりだ。最初はそんな「毛布」を持っていたっていいけれども、ゆくゆくは「楽園から出て、世界を楽園にしなくちゃいけない」(p.366)。また、耽美小説を好む女性は「女としての性欲を自覚したくないから、美少年でごまか」しているのであるとも述べている(p.365)(注:なお注記しておくとこの論の要は、「耽美小説を愛好する女性たちの創作は、現実の同性愛者を抑圧している」というところにある。これは古くから繰り返されている議論でありながら私も未だ特に結論をもてていないのだけれど、ここでは触れない。)
男と男の愛の物語を好む女たちが既成の異性愛制度に違和感を感じる女たちであるとして(BLがこれだけ浸透した今この前提も前時代的なのかもしれませんが)、彼女らが依然ステレオタイプな「愛される物語」を求めることに対する苛立ちは、理解できる。が、今問いたいのは、次の一点、すなわち、そうした物語を愛好する女性たちの欲望は「本来」のものではない、ということが前提とされている点であります。

栗原氏は、彼女らのファンタジーはいつか手放すべき「ライナスの毛布」であるとしている。「ライナスの毛布」は移行対象つまり仮のものであって、本来の欲望の偽装である。では本来の欲望とは何かといえば、「女としての性欲」なのだ。それを自覚するのが怖いから、彼女たちは男同士の性愛という、自分の身体と関係ない表象へ向かっているだけ。彼女らは、怖くても主体としての欲望を直視しなくてはならない。或いは、抑圧的な世界の変革(「世界を楽園にする」)という現実に向かわなくてはならない。
が、どうなんだろう。そもそも「本当の欲望」が自分の女としての身体に根ざすもののはずであるという前提は。もちろん栗原氏は、「女としての性欲」を、(たとえばかつて摂食障害治療にあたって患者に受容させるべきものとされてきたような)「異性愛者の女として異性を愛し子供を産むこと」のような狭い意味で使っているのでないことは注記しておく。だけどそこには、欲望とは主体的であるべし、現実的なものであるべしという倫理が前提されていて、でも、欲望に倫理なんてあるのかしら。「本当の欲望」といったものがあるとして、その欲望が、たとえば「少年として男に愛される」ことであったりこの身体を失くすことであったりしてなんのおかしいことがあろう。それが本当の欲望では無い、と断ずる理由がどこにあろう。
欲望、をこの身体に閉じこめなくてはならない理由が、どうしてあるのでありましょうか。


とはいってみるものの、ここで二たび、しかし、である。
とはいえやはり、私の欲望が完全に、自分の身体、性差の二分法の中で生きるそれから自由であるわけでないこともまたたしかなようです。
たとえば上記の批判に対して、それは単に「愛される物語」なのかしら(「愛する物語」でもあるのでないか)と思いもするのだけれど、そうして逆の性に仮託するときそれは、能動−受動、男−女の二分法の構図を前提しているみたい。二分法を撹乱するような瞬間を見ると同時に、二分法に囲われてもいるみたい。


で、その両義性は、音楽に似てるのだった。
音楽のふしぎなのは、優れたそれを聴くとき、わたしは身体や体重を失うように感じる、のに一方でそれは極めて肉体的な行為であって、たとえば楽器を弾いたり叩いたりする腕、筋肉、喉、声帯を経由したもの、それは肉体による行為であって、踊る観客、弾ける肉、それは肉体的を揺さぶる行為である。揺さぶられる身体はリミット付きで、つまりは生存のリミット付きで、しかし揺さぶることが時間を無時間にする、ように感ぜられる。そのことが、いつまで経っても不思議なのである。
またそれは、社会の中でわたしたちをひとりぼっちにさせてくれる。一方で、とりわけロックンロールドリームの歴史は、しふぉん主義の中で成功した商品になることと不可分だったでしょ、また、或る種のセクシズムとも不可分だったでしょ。パフォーマーと観客、窃視者と露出者の古典的二分法のショーヴィジネス。資本主義に囲われた中でわれわれは揺さぶられ、だが、資本主義に囲われているということも含めて揺さぶられるのである。
マスキュリティへの同一化として私が感じたものはそうしたときの充実、そうしたときの充電だったのだと思う。が、一方でやはり、その囲いの外には出ていない。
n個の性というてもいいけどさ、そんなに胞子的になれなかった。だって音は電気に接続されてるもの、だって電力会社に接続されてるもの、だってしふぉん主義に接続されてるもの。


われわれの関係もそれに似てたね。適切なリビドーの交歓の中で君の身勝手なリビドーに同一化するとき、それは充電であり充実であるのでした。そうして双数であることによって複数=n個になることがあらまほしき性のあり方かと思いきや、性を通してわれわれはまた半分や半分以下になる。愛を社会の中に登録したりなんやらしたりする試みの中で、いつの間にか忌まわしき二分法の分断統治を受けていたり、性別をもつことがそもそも関係を阻むことであったり。
また、複数になれた気がした私のほうでも実は、実は君たちを部分対象としてもぎとって使用していただけなのかもしれず、だとすればそれは、前世紀に倉橋由美子が書いた、死んだ男の腕で以って書くというあの古典的な阿部定的女のえくりちうるについての構図から、考えてみれば一歩も、出てないじゃないのか。



お兄様(と以前どう呼んでいたか忘れてしまった、あなたはわたしの兄ではないが、こんなふうに呼んでいた気もするゆえ古典的な呼称を復活させていただく)、わけのわからない海に飛び込んで泳いでゆくのか、と言うたのが15年前、27歳を過ぎた程度で自嘲してた方もまだ生きておられるし、此方は女になるかならぬかも決定できぬうちに前に生殖するかしないかを選択せよという無理ゲーを生きてきて、生殖のリミットの次は生存のリミットだ。が、今年ようやく、他人の腕をもぎとるのとは違う書き方ができそうな気がしています。まだ分からないけど。
その頃隣の会場では、日本精神医学会が、「精神分裂病」という呼称を「統合失調症」に変更することを決議した。
じゃ、アレも、『資本主義と統合失調症』って訳すんですか。たまたま失調した状態を元に戻すのが医療ってわけか。
基礎代謝もめっきり落ちて、無理なダイエットはもうできない。








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