シフォン論#10 僕たちは遺伝子の乗り物か(2)
「さふいふ社会を来させるために、
自分たちは次に来る者達の「踏台」になつて、
さらし首にならなければならないのかも知れない。」
「夫達は誰のためにやつてゐるのだ。
お恵は変に淋しい物足りなさを感じた。」
(小林多喜二「一九二八年三月十五日」岩波文庫)
1. 生殖年齢も半ばを過ぎて
思へば当時、流産の夢ばかり見ていたものだ。
妊娠したようだ、しかし、夢の中の私は(現実の私と同様)自分が産みたいのか産みたくないのか分からない。どうしようか、と迷ううちに陣痛らしきものが始まるのだけど、何ぶんにも実際に陣痛を体験したことが無いものであるから、断続的に訪れる頼りない刺激を、「これが陣痛というものかな?」と戸惑いつつやり過ごしているうちに、何かが分娩されるのであるが、分娩されたそれはいつも、赤黒いゲル状の、人のかたちを成していない、いわば水蛭子のようなものなのです。
夢の中で私は、「ああ、産んでよいのか産むまいか迷いながら産んだから、中途半端なものが出てきてしまったのだな」 と妙に納得しつつ、どこかほっとしていたのでありました。
さて生殖年齢も半ばを過ぎて、今頃驚くのは、人間の再生産サイクルは意外に短い、ということであります。みんな知ってたんか? 頭ええな。
多くの健康な若者が、死をずっと先の、自分とは無関係なほど遅延されたずっと後のこと、と信じていると同様にあたしときたら、産むべき季節の到来は、いつか行くかもしれぬお伽の国ほど遠いことであると感じつづけておりまして、そうしている間に初経から二十余年が過ぎた。
その間わが身体は(わが意志と関係なく)孕みうる身体であり続けてきたわけだけど、だがそのことが、「産める」ということイクォールであるという実感は、ついに得られなんだ。
流産の夢を見ていた高校生の頃は実際にも、「自分は未だ産むときではない」と思っておりそれは社会的にも「正しい」ことであるらしかった。高校生の妊娠は、社会的にも不都合なこととして多くは眉を顰められる。生物学的に産めることが社会的に「産める」こととはイクォールで無い。二十歳前後となると一転、産む産まないの選択は、親や先生の管理下から、突如個人の自己責任に委ねられ始めます。無論諸々の経済的・社会的障壁はあれど基本的に自由意思である。で、自分の意思はといえば、産みたいのやら産みたくないのやら分からない。だがいつか欲望がはっきりと形を成すはず、社会的なそれと自分の欲望とが「自然と」一致し、どうしたいかが見えるはず、たとえばフロイトの鼠男がある日自分の欲望と人生を生き始めた(とされている)ように、と漠と信じ、ところがそう信じているうちに、卵子の残り玉もそろそろ打ち止めリミットに近づきつつある未だもって、分からない、産みたいのか産みたくないのか、産みたかったのか産みたなかったのか? 我、何を欲望するか、と問うてるうちに日も暮れた。そう、「私の身体は頭が悪い」。
あらまあ、優雅なご身分ね、ときみは言うだろう。昔の人は、またはあの国の人は、と、きみは言う。産む産まないの意志にかかわらず、あるいはそんなことを考えることもなく、生産力として孕まされ産まねばならない/ならなかった。或いは、産みたくとも身体的事情によって産めない人がいる。そんな中、自分の欲望をめぐって戸惑えるだなんて、ご立派ね。また、或いは、かわいそうね、ときみは言うだろう。ひと昔前ならそんなふうに悩まずとも、強固な性別役割分業と世間の圧力によって、もっともっと昔ならただ生物的本能によって、自ずと道は引かれていたであろうに、自由の刑に処せられた現代人よ、お気の毒ね、ときみは言うだろう。
いずれの言い分も、全力で憎む。
七〇年なら一瞬の夢さ
七〇年なら一瞬の夢さ
やりたくねえことやってる暇はねえ
(「ブルースをけとばせ」/the Blue Hearts)
2. 労働者諸君よ、
歴史的地域的にはまったく限定的なはずの、しふぉん主義という形態に則った倫理道徳を私たちは普遍的なものであるかのように信奉していて、ときどき冗談みたいな世の中なのにな、と思ってみても、その冗談にのっからなければ餌を得られない。まったく「アタマにくるぜ」であるよ。
希望を語ることでなく、現代の我々がおかれた絶望的状況を分析し提示することによって、世界の労働者たちを元気づけるような、と、Y氏が構想を話してくれた来たるべき書物(まだ来ない書物)の構想を未だ忘れてはいない。
それはなんて時代錯誤的だろう、と自嘲なすッたその頃より、その絶望的状況が上向いたという話もついに聞かれず、ますます以て。
時は流れてテン年代の日本では、排外主義が話題である(いや昔からそう変わっていないのかもしれないが)。
その、ネットの写真や街で見かけた排外デモの演説やプラカード、それらに或る種の、猥褻さを感じるのは何故なんだろう。
子供の頃郊外のガード下で、真っ赤なスプレーで書かれた、誰かを中傷することばを見た。中傷のことばだということは何となく分かったが、知らないことばであったそれは、後で思えば、被差別部落と女性に対する差別のことばであった。私はその落書きを、見てはいけないもののように感じ目を背けたのであったが、皮膚の内側が騒ぐような一種独特の感じは、濡れて河原に落ちているエロ本を見つけたときと同じ感じだった。
差別の猥褻さ、それを、人種差別は性欲の根源です、と歌った遠藤ミチロウのことば以上に短く表したことばを私はまだ知らない。
で、猥褻とは、である。
子供の頃、何故ユートピアが早々に到来しないのか不思議に思っていた。
もちろんユートピアなどという語は知らなかったが、そう、みんな平等で・資源を分かち合い・争うことなく・国境も差別もない素朴な世界。簡単やん? 国境をなくすことにしたら国同士の争いもなくなるよ。国境なんてもともと無かったものでしょう? 核兵器におびえて暮らすなんてみんなイヤなはず。じゃあ、いっせーのー、で棄てたらみんな得するんやん?なんで明日にでもそうせーへんの?
と親に疑問をぶつけてみたらば、
阿呆かいな、町内の合併でもえらい揉めるねんで、国同士の境を無くすなんて夢のまた夢やな、
と笑われたのであったが、私は10歳当時の自分のこの考えが、甘い考えであったとは今もってまったく思わず、甘いのはむしろ、そうした明らかに理性的な方向に向かわないことをだらだらと許しあい、「これが現実や!」とかほざいとる世界のほうであり、実に子供は論理的かつ理性的で大人は非論理的非理性的である、と今でも思うのでありますが、10歳当時の私が想定していなかったファクター、いわば人間を非論理的非理性的たらしめる大人のファクターがふたつあって、それはひとつに信仰、ひとつに人間の欲望、とりわけ性的欲望、というファクターであった。
ユートピアが挫折するのはいつも性と結婚においてである、と先輩も言ったよ。
思えば信仰というファクターによって当時他ならぬ己が家庭内に深刻な分断が起こっていたというに、何故それを無邪気に無視できたのか、これは10歳とはいえわたくしの認識不足でございましたが、人の欲望、とりわけ性に関する欲望というファクターの存在は、まったくの黒船的打撃であった。
それの存在を知ったのはいつだっただろう。あのいきものたちは、毎日眉間に皺を寄せてお勤めしたり子供を叱ったり、おやつも食べず絵本も読まず、何が楽しくて生きてるんであろうか? とふしぎに思っていた大人という生き物が、どうも性生活というものをもっているらしい、そしてそれはときに、それと引き換えにいろんなものを我慢したり狂わせたりするほどにでかいものらしい、と知ったこと。
直に思い知った黒船的場面は今でもよく覚えておって、或る尊敬するお人が、己の理想を語った後に、「じゃあ理想通りにすりゃいいんじゃないですか?」という問いを遮って、「でも性欲があるからねえ」と言うたひと言であった。かくも理性的で理知的な人にとってもそれはそんなに大きなファクターであったのか、そしてそれが肉体に根ざす欲求であるからには、私の理性や理屈では太刀打ちできぬ、と初めて純然たる無力を知って、茫然とした。他者を知らぬ乳児は全能感に包まれているけれども、このとき私の全能の最後のかけらが砕けたのでありました。
さらに、事態をややこしくするのは、それが肉体に根ざすものでありながら、それが純粋に肉体的なもののみで無い、という事実であるよ。
そう、人間の性は、単に肉体的に快楽を得てそれでハッピーというもんやなくて、さまざまな後ろ暗いもの、京都の町屋の縁の下に赤黒くとぐろをまくねばねばとしたものと結びついていた。そしてそれは縁の下から這い出して、いわゆる狭義の性的事象に留まらぬ、いろんなものを汚染していた。
と、いえば、なんでもあなたは性に還元する、と言われるやろか、でも、そうじゃない。なんでもが性に還元されるのでない、性が社会に汚染されてるんだもの。
イエイエ、汚染などといえば、では汚染される前のなにか健全でまったき性、のようなものがあって、搾取されたそれを奪還するのだ、って話になるが、そうしたものがそもそもあったのか私は知らない。そうしたものがそもそもあって、それは社会によって歪められたのだ、ってライヒなら言うだろう。でも、社会によって歪められてない状態とか、想像つかないし。とまれそれは最初から汚染された状態で目の前に現れたのであって、汚染が先か性が先か、はここでは問わない。
「性」は人生に現れた最初から既に外傷的であって、まったく誤解を恐れずいえば、わたしたちは皆幼児期から、世界によって軽く性的に虐待されている状態だ (とこのように述べたからといって、実際的な狭い意味での「性的虐待」の影響力を低く見積もる意図はないことは付け加えておきたいけれども)。
「近代においてサドマゾヒズムがしだいに重要性を増しているのは、この(剥き出しの生と政治的実存の)入れ替わりに根がある。というのは、サドマゾヒズムとはまさしく、相手の内に剥き出しの生を現出させるセクシュアリティの技術のことだからだ。」
(アガンベン『ホモ・サケル ― 主権権力と剥き出しの生』 高桑和巳訳、以文社、2003. p.186)
3. 電子の海の剥き出しの水蛭子
産む産まないは女が決める、といったフェミニズムのテーゼは、それはとても重要な、色褪せないテーゼである、と私は考える。
とはいえ、一方で、私が決める、と述べるところの 私 は 私 だけによって構成されているわけでないのだった。
きみは何を欲望するのか、とかれは常に問うていた。
きみが何を欲望するのか分からないので、ぼくはどうしてよいか分かりません。で、答えるのであった。
それはあたしも同じなの、「あたしの欲望は神の欲望です。だが神があたしに何を望むのか分からない、だからあたしは何を望んでいいのか分かりません」。
とかなんとか言うてるうちに、神も生きてるのかいないのか、かなり怪しくなってきた!
昨今その見えざる御手も、あんまりうまくは動いておられぬようだし。それともみんなはちゃんと、神の声を聴いているのかな?
白い たまご しょぼい 人ね
白い たまご あなたの こども
今すぐこわして 今すぐこわして
(「白いたまご」/神聖かまってちゃん)
道具立てはこんなに変わっても、わたしたちの信仰行動は呆れるほど変わりなく、人々は電子の海中にせっせと祠を建てる。
主に10代の少年少女たちが性に関する悩みを相談するBBSを覗いたことがある。
避妊の失敗を嘆くスレッドや、生理が来ない不安を語るスレッド。その中で最もレスの多いスレッドは、「水子の祟り」に就いてのスレッドであった。
「中絶してから、水子が憑いてる気がするんです」と訴える女の子。一方で、「排卵日って何月何日ですか?」という質問。さらに一方では、人工妊娠中絶体験を語る女性たちに対し、ひたすら「殺人鬼」「ビッチ」「生きる資格なし」と繰り返し続ける匿名者。
科学の時代も極まった、輝かしい21世紀のIT技術、洪水のように膨大な情報の中で、彼女ら、そして彼らにとって本当に必要であろう情報だけが、すっぽりと欠落しており、また、中絶体験を語る女性たちは一様に、「一生この十字架を背負って生きていかなくてはならない」「一生幸福になってはいけない」「赤ちゃんと一緒に死ねばよかった」と、90年代初頭にわれわれが暗い視聴覚室に女子のみ詰め込まれ教え込まれたのと同様の、定型句でコラージュされた「愚かな罪の女」像に忠実だ。そしてそのように語らねば、読み手も納得しないのでしょう。
100パーセントの避妊法など無いからには、望まぬ妊娠は、孕みうる女、或いは、孕ませうる男であるならば、「誰にだって起こりうること」の筈だ。だが、反復されるスティグマの中で、中絶した女性たちは、「こっち側」にいられなくなることになっている。それぞれ固有の顔を持ち、笑ったり怒ったりし合える「こっち側」から、罪と罰の定型句と沈んだ横顔しか許されないのっぺらぼうの青白い「あちら側」へと追放されてしまう。
実際は望まぬ妊娠の理由や中絶前後の感情など人の数だけあるであろうに、これだけの多様な情報の可能性の中で、それらは一向に語られず、また、それを避ける実際的技術に関する情報も語られず、語り古された三文小説だけが反復され続けます。
新しいメディアの中の、古い身体。古い、といったってそれは、自然の、という意味ではなく。
ひやりとした時、計算した。初期人工妊娠中絶の手術代、国立大学半期授業料の半分。
時給850円としましたならば、云々。
最新のテクノロジーやクールなビジネスの中に、再生産という超原始的ファクターがぶちこまれており、それは存在し無いことにされる一方で、それは厳密にあるいは雑に管理されている。
既に性が自然などでない一方で――それは産休や性産業やメディアや時間単位数千円のご休憩とつながっており、おまえと俺との間には0.03mmあるいは0.02mmの原料調達、ゴム会社、ドラッグストアの労働法違反の介在――その一方で、自然な性を取り戻せ、というあなたがた。でも、既に自然な性など無いということを忘れて(あるいは意図的に忘れて)それが主張される限り、罠やで。
2013年の昨今世間では卵子劣化論がお盛んです。何も決定できぬまま一卵去ってまた一卵、受精せぬ卵子を見送ってきたわたくしのようなぼんやりを殲滅するためのキャンペーン。そこでは早期に欲望を決定するべく啓発されるらしいが、そこで想定されている欲望は一種類であって、それが、そもそもべつに産みたくなどなかった人、産みたい気持ちはあったけれども制度上困難だった人、他の事情と秤にかけて甚大な痛みとともに断念した人、そんな大袈裟なもんやないけどなんとなくの痛みとともになんとなく見過ごしてきた人、そもそも女になりたくなかった人、というあらゆる個別性やグラデーションを無視するものである限りにおいて、悪質で反動的な流行であると考えるし、中には性教育が避妊教育にばかりかまけて再生産義務という「最も大切な」事実を教えなかったことを攻撃をする人もいるけれど、それは先人がそれこそ命を賭して獲得してきた知への冒涜であると考える。
私たちはたしかに、神の声を失った。とはいえ「昔の人」は神の声を聴いていたのだろうと思いこむのもずいぶんなノスタルジーでありましょう。ノスタルジーはけっこうだが、勝手なそれに基づくあの頃はよかった論は、私の母や私の祖母の、涙や苦悩や怒りを無駄にすることだ、と私は思う。いやこの思いもまた現代における幸福の価値観や自由や自己決定こそ最上という価値観に依拠して過去を測る傲慢に属するかもしれないのだが、その危惧をふまえたうえでも。
4. n+1個の性(笑)
たとえば地球に食糧危機というのがありますが、オウム食みたいにみんなで食糧の摂取を少しずつ減らしていけば、そういう問題はうまく解決するのではないかと言われました。供給を増やすのではなく、身体のほうを変えていくわけです。 (村上春樹『約束された場所で―アンダーグラウンド』講談社)
われわれの関係もそれに似てたね。適切なリビドーの交歓の中で君の身勝手なリビドーに同一化するとき、それは充電であり充実であるのでした。そうして双数であることによって複数=n個になることがあらまほしき性のあり方かと思いきや、性を通してわれわれはまた半分や半分以下になる。愛を社会の中に登録したりなんやらしたりする試みの中で、いつの間にか忌まわしき二分法の分断統治を受けていたり、性別をもつことがそもそも関係を阻むことであったり。
また、複数になれた気がした私のほうでも実は、実は君たちを部分対象としてもぎとって使用していただけなのかもしれず、だとすればそれは、前世紀に倉橋由美子が書いた、死んだ男の腕で以って書くというあの古典的な阿部定的女のえくりちうるについての構図から、考えてみれば一歩も、出てないじゃないのか。
お兄様(と以前どう呼んでいたか忘れてしまった、あなたはわたしの兄ではないが、こんなふうに呼んでいた気もするゆえ古典的な呼称を復活させていただく)、わけのわからない海に飛び込んで泳いでゆくのか、と言うたのが15年前、27歳を過ぎた程度で自嘲してた方もまだ生きておられるし、此方は女になるかならぬかも決定できぬうちに前に生殖するかしないかを選択せよという無理ゲーを生きてきて、生殖のリミットの次は生存のリミットだ。が、今年ようやく、他人の腕をもぎとるのとは違う書き方ができそうな気がしています。まだ分からないけど。
その頃隣の会場では、日本精神医学会が、「精神分裂病」という呼称を「統合失調症」に変更することを決議した。
じゃ、アレも、『資本主義と統合失調症』って訳すんですか。たまたま失調した状態を元に戻すのが医療ってわけか。
基礎代謝もめっきり落ちて、無理なダイエットはもうできない。