シフォン論#1 イエスタディ・ワンス・モア




「エロカッコイイ」なるキャッチフレーズで売り出し始めた倖田來未という女性歌手の姿を、さまざまな媒体でちらほら見るようになった頃気になっていたのは、

不遇の下積み時代を過したが、ダイエットにより8kg痩せ、今の地位を築いた
という8kg痩せエピソードを、週刊誌やテレビのみならず新聞までもが、こぞって努力の美談として取り上げていたことでありました。
天下の朝日新聞(なぜか朝日新聞に言及するときは「天下の」という修飾語をつけることになっているようですのでつけてみました)までもが、それを何の疑いもなく美談として語っていることに、わたしは非常な疑問を感じたのでした。
だって、わたしたちは、かつて、同じようにして痩身に励みやがて32歳で死に至った女性ミュージシャンを、ひとり知っているはずではありませんか。

成功のための努力を続ければいつか報われるのだよ、自分の努力次第で成りたい自分に成れるのだよ、という倖田さんのこのエピソードは、夢を持つ人びとを元気づけるものかもしれませんが、しかしそもそも、なぜ「成功のための努力」が「8キロ痩せ」でなくてはならんのか、なんで誰も問わんのや。

何故「太って」いると「売れなく」て、8kg「痩せた」ら「売れる」のか。何故、8kg「太って」いたことと「売れない」こと、8kg「痩せた」ことと「売れる」ことの相関関係がまったく自明であるかのように前提されているのか。そこに何のつっこみもないことに、わたしは引っかかったのでありますよ。そこにつっこむことの方が、羊水が腐るの腐らないのと騒ぐより、ずっと有益なことではありますまいか。羊水なんか腐らせておけよ!


さてそんな美談が垂れ流される一方で、痩せることに腐心する女性たちを、ときに人はばかにします。外見ばっかとりつくろってもねえ、とか言って。
おしゃれやダイエットや美容整形に専心する彼女たち(わたしたち)の消費行動は、確実にしょうひしゃかいに重宝されているにもかかわらず、いやもしかするとそれゆえにいっそう、彼女たち(わたしたち)は嘲笑されるのです。

わたしたちの腐心は時に、原理主義的になりゆくことをやめません。
「痩せさえすればすべてが変わるはず!」 とダイエットするひとたちは言います。
そんなふうに言われれば、いやいやそりゃあばかげた思い込みですよ妄想ですよ、と笑うのが常識でありましょう。だけれど実際に、美容産業の広告にはこんなふうに書いてあります。つまり、妄想で経済が動いてるわけぢゃんか。

「女の一生はサイズしだい!?」(エルセーヌ、2003年11月新聞折込広告)
「やせたら人生変わった」(平安堂薬局、2003年12月新聞折込広告)


痩せさえすればすべてが変わる、というこの原理主義的信仰はしばしばわたしたちをして、食の障害に至らしめます。
たとえば、或る摂食障害自助グループのインタビュー集には、太っていた頃に自己誘発性嘔吐にのめり込んでいった女性の、次のような談話がありました。
最初一所懸命手突っ込んで。友達がそれでやってたって聞いて。最初はかなり抵抗があったけど、でもやせればあたしは世界が明るくなる、この鬱状態から抜け出せると思って。 (伊藤比呂美・斎藤学『あかるく拒食ゲンキに過食』平凡社、1992、93頁:強調筆者)


まだ太ってる、まだこんなに肉がついている、とダイエッターたちは言います。「ボディ・イメージの歪み」とせーしんかいは言います。しかし、わたしたちは歪んでなどいない。その通り、わたしたちは、いくら痩せても痩せ足りません。
日本肥満学会基準によりますと、BMI値から見たわたしの「適正体重」は45-9kgです。わたしは現在適正体重圏内に落ち着いていますがこれで安心と思いきや、Yahoo!ビューティーによると、わたしの「美容体重(理想体重)」は42kgなのだそうですよ。「美容体重」とは、美容上望ましい体重とのことです。これに照らせばわたしはまだ太っています。して42kgに達しても、また新たな規準が設定されるやもしれません。42kg? まだ重いですよ、今のトレンドは38キロですよ。今の美の基準は35kgですよ。いえいえ32kgですよ。そしてダイエットサプリやら美容器具やら売りつけるがいい。

何処の誰だか知らない人がたぶんに恣意的に決めたに過ぎぬ美の理想形であるのに、それに到達できないことで、こんなにも落ち込むのは何故。42kg以上の自分に生きてる価値がないような気がするのは何故。42kgを超過した肉をぎりぎりノコギリで斬り落としたい。「すっかり骨と皮だけになって、どこに肉がついているというのでしょう、でも本人は、まだ太ってるって言い張るんです」「認知のゆがみですね」と医者が言うてます。だがゆがんでいるのはおまえらのほうだ。




わたしの胸が、あとちょっとだけ大きかったら
わたしの目が、あとちょっとだけ大きかったら
わたしの鼻が、あとちょっとだけ高かったら
この世界も少し、変わるかも知れない
「世界平和」


とかいう大塚美容形成外科のテレビ・コマーシャルを見て、なーにが「世界平和」か! と中指立てたのはわたしだけでありましょうか。いや立ててないけど。

「クレオパトラの鼻が低かったら」の裏返しパロディであろうこのフレーズは、しかしなんとまあ悪質な自己責任論の究極ではあるまいか。現に世界平和を阻んでいる大小の政治的経済的社会的諸事象がすぐ目の前にあるというのにそれらを華麗にスルーしておまえはなんとまあ、われわれにそれらから目を逸らすように仕向け、世界平和の責任を個人の、わたしの容貌に帰すというのか。そんでわたしの鼻がちょっと高くなって気分が変わったら、世界にまだまだ夥しい悪と不幸があるにもかかわらずそれに目を瞑り「はいはい平和平和」とかなんとかハッピーがっておけというのか、なんという欺瞞!打倒、権力の論理!……と憤激してみたもののしかし、誇大妄想じみたこのコピーは、わたし(たち)の信仰をずばり言い当ててもおります。

たしかに、たしかに、わたしの体重があと数kg軽かったら、何もかもが変わるのです。
それは、責めるべきものは外にあるというのに己の体重にすべてを転嫁する卑屈なのか? それとも、世界のすべてをこのわたしの身体が左右しているのだという誇大的現実逃避なのか?

とかいうことを考えていた或る日、大学で、全学連によるビラを見かけました。
革命やら団結などよく分からんし、組織や集団で行動するなんて嫌いだ。だけどどうやら我々には、歴史を変える力があるらしい。エビちゃんみたいに可愛くなろうと頑張るよりも、もっと自分を好きになれることがあるらしい。(2007年夏頃)

全学連のビラにエビちゃんの名が!
エビちゃんとは、(おなじみエビリファイ錠ぢゃなくて)ファッションモデル・蛯原友里を指すと思われます。
若い女性たちの憧れの的とされている人で(個人的にはその魅力がいまいち分からないのですが…)、勿論スレンダー体型です。
「エビちゃん」なんぞという、全学連のビラに一見不似合いな固有名によって、学生運動になど興味のない学生の目もおやっと惹きつけようとしたのであろうこの文章が狙い撃っているのはまさに、大塚美容形成外科の欺瞞的キャッチフレーズに引っかかってしまうようなわたしたちででありましょう。
君の容姿が美しくないから世界は平和にならない? 騙されるな、世界平和を阻むものは他にあるんだ。
君の容貌が美しくなって世界は平和になった? それは違う、君の気分と立場が変わっただけで、世界は依然もとのままなんだ。

大きな力から目を逸らさせようとする一方で、平和やなんやらを個人のたとえば容貌向上への努力に帰すやりくちにまんまとはまって誰かの基準に自分を合わせるのでなくて、むしろ自分からそんな世界を変えてやればよいのだよ、ということに気づかせてくれる点で、この文章は啓発的である――もっともこのビラを書かれた方は、「啓発」などという言葉はあまり好きではないかもしれませんが――けれども、してそもそもわたしは「自分を好きに」なりたいのであったっけ、と考え出せばまた分からなくなるのです。

自分を好きになるとはどういうことであったっけ。わたしはいま、誰の視線も迂回せずに自分を好きになるなり方が、もう想像できない。それでその視線って誰の視線であるのか。


売られている服はサイズが合わない。そのとき、悪いのはあっちのほうだ、多様なサイズを生産しない企業のほうだ、と考えるべきであるのか、悪いのは基準をはみ出すわたしの贅肉である、と考えるべきであるのか。それはおそらく古来から繰り返されてきた問いであります。似ているのは、外的ひずみが原因で病んだ心を投薬で世間に「適応」させるを以って治癒とするがいいのか、それとも世間を変えるべく志向すべきであるのか、という精神科治療の問い。
ですが、そんなふうにぐるぐると悩んでいるうちにも、数kg痩せればそんなぐるぐるも解決されるんでないか、という馴染みの思考が亡霊のように襲ってくるのです。
悪いのは外界であると考えてもよいはずであるのに、悪いのはわたしの身体である、あのサイズに合わせて脂肪を削り取るべきである、と考えてしまうのは、これまでの社会生活でそのような思考回路を植えつけられてきたからなのであるのか、それとも、そう信じることに何か快楽があるからであるのか。と考えようとするや否や、いいやもうなにも考えなくていい、とにかく痩せれば何か変わる、軽くなれば何か変わる、という呪いのような想念が、宿病のように、幽霊のように回帰してくるのですよ。




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