シフォン論#0 万国の阿字子たちは団結などしない




「齧ればいいじゃん。親の脛なんて、齧れるだけ齧ればいいんだよ。脛を齧られるのが親の役目なんだから。齧るだけの脛を持ってない親なんて、親の価値、ないよ。で、親から借りたお金は返さなくてもいいんだよ。返せても返しちゃ駄目なんだよ。親に負債を作るのも親孝行の一つなんだから」
(嶽本野ばら『下妻物語』小学館、2002. 126頁)


嶽本野ばらは、若い女性を中心に支持されている作家です。
焦燥感を孕んだリリシズムと、随所に顔を出す関西ノリのミックスが、その作風の特徴ですが、何よりも彼の小説の最大のセールス・ポイントは、作者の愛好するお洋服やそのブランド(野ばら風に云うなら「メゾン」)の固有名、それらに就いての詳細な描写と熱っぽい蘊蓄が、ごてごてと作中に鏤められている点であると思います。よって、若い女性の中でも殊に、ロリータ・ファッションと呼ばれる服装を愛する人が、彼の中心的なファン層となっていると思われます(註1)

野ばら氏は男性でありますが、吉屋信子らの少女小説の文体を意図的に取り入れた仰々しさを以て、「乙女」なる古風な語を現代に復権させた人物でもあります。
彼の最初のエセー集『それいぬ』(国書刊行会、1998)の副タイトルは、「正しい乙女になるために」。とはいえ、大真面目に乙女の嗜みを論じているわけでなく、いわば乙女なき時代の乙女論としての、パロディ精神に満ちたもので、そもそもそのタイトルからして中原淳一による『それいゆ』のハズシです。「乙女」たることが意図的に採られる戦略であるということは、たとえば次のようなくだりに垣間見えます。

大きなリボン、フリルのブラウス、ワイヤー入りのバレリーナ風スカート。百円の指輪、キティちゃんの文房具、大きなクマのぬいぐるみ。(略)呆けた笑顔でクルクルとスケートリンクを滑走するロリータの、それはフェイクな哲学なのでした。 ぬいぐるみに同化し、解読不能な玩具のふりをして生きてゆくのです。それこそが、ロリータを残酷な世界から守ってくれる唯一の方法であったのですから。(『それいぬ』国書刊行会、39-40頁)

男のコのヒーローは社会の為に戦って誉められますが、女のコのヒーローは誉められません。故に女のコのヒーローの行動に大義名分はなく、それは個人的趣味に帰結します。「一生、遊んで暮らしたい」「苦労なんてしたくない」「ちやほやされて、泣けば全てが赦されたい」これはお荷物としての正しい人生哲学でありましょう。
(上掲書、79頁)



さてこうした「乙女」戦略は、経済戦略としての一面も含んでいます。彼の作品が読者を惹きつける理由には、上に挙げた諸要素に加え、そのオトメ経済学理論が大きなものとして挙げられるのでないか、と近頃気付きました。
冒頭に引用した『下妻物語』は、映画化されたことからご存知の方も多いかもしれませんが、野ばら氏初のコメディ作品です。ですがやはり、その端々で語られるのは、オトメ経済学理論です。
主人公は、BABY, STARS SHINE BRIGHT のお洋服を愛する少女・桃子。冒頭で引用しましたのは、その「桃子」ちゃんの台詞です。
ロリータでロココな精神を持った「桃子」は、勤労を以て善とするような道徳に反旗を翻します。「ロマンチックでお上品でクラシカルで意地悪」(『それいぬ』惹句)であるべき乙女たるものには、定義上、労働は似合わないでしょう。労働によって金銭を得むとするときわれわれは、いつでもロマンチックでお上品でいるわけにも行かないし、誇り高き意地悪よりも愛想の良さを望まれるかもしれないし、フリルのついたお洋服ばかり着ているわけにも行きません。だが、乙女といえど、カスミを食べて生きてゆくわけにはいかない、さてどうしましょう。という葛藤を、「オトメ経済学」は一気に解決するアクロバットです(註2)。このアクロバットの基本姿勢は、次のように要約できるのでないでしょうか。曰く、借金踏み倒し。

彼の小説には、乙女無き時代に相応しからぬ気高い精神を持った「乙女」が登場し、その精神に相応しい、過剰であったり時代錯誤であったりの、デコラティヴなお洋服を纏うことになっております。そうしたお洋服は、彼女らの美意識やそれゆえの世間との齟齬を象徴しています。vivienne westwood、MILK、Jane Maple、Emily Temple Cute...etc. ですがそこで、読者たるわれわれ(ていうか私)が気になってしまうのは、多くは日本の中高生という設定になっている彼女らが、どうやってその衣類を購うための金銭を手にしているのか、という瑣末事です(参考のため述べておきますと、上記メゾンの商品は超高級品というわけではないものの、平均的な中高生には気軽に手を出しにくい価格設定であると思われます――少なくともジャスコで1980円とかでは無い)。フィクションを楽しむにあたっては野暮な疑問ですけれど、野ばら作品をオトメ経済学の理論書として読むとき、このへんは、なかなかに重要なのでないかと思います。
ちょっと見てみますとこの点は、親の財布から掠め取る(『世界の終わりという名の雑貨店』2000)・家が大富豪である(『鱗姫』2001)・パチンコで必ず確変を起こす特異体質である(『下妻物語』)、などと説明されています。唯一労働らしい労働は『ツインズ』(2001)の主人公が「最も古い労働」と説明する「売春」くらいですが、これは好きなお洋服を買うためのものではなく、むしろ彼女は好きな Jane Maple を着る自分と「売春」をする自分を厳密に切り離しています(なおこの作品は、発表時点では、ファンの間で最も賛否両論激しい作品であったと思います(註3))。


さて先ほど、乙女無き時代の乙女論と申しましたが、では、乙女が乙女であった時代(と言ってよいのでしょうか)、大正期の乙女の世界を研究した本を読みました。当時の乙女たちの声がいくつか収録された、川村邦光氏著『オトメの身体』(紀伊國屋書店、1994)には、たとえば、次のような、大正9年の少女雑誌への読者投稿が紹介されています。孫引きになってしまいますが、引用します。

人形の家はついに去らねばなりません。そしてほんとうに人の殿堂に上り、真の乙女の生活を築き上げねばなりません。自己の生命を心からたっとび、その生命の権威はどこまでも打ち立てねばなりません。 (『オトメの身体』9頁、雑誌『女学世界』への読者投稿)
ひとりのオトメから新時代へのオトメたちへの呼びかけという体裁を取った投稿です。この投稿を受けて、川村氏はこうコメントしています。
桃代(上掲文投稿者――引用者註)は、なによりもオトメとしての「生命の権威」を樹立し、自立することを大切にする。与謝野晶子のいうような、経済的な自立ではない。あらゆる権威に対抗して、「乙女としての生命」をのびやかにはぐくむこと、ここにオトメの核心をみいだしている。(同上10頁)
自立を希求し始めた新時代のオトメたちの心意気が評価されていますが、同時に、ここで注目されるのは、それが「経済的な自立ではない」という点です。ほぼ同時代に女性作家の手によって書かれた、或る美しい文学作品には、まさしくこの、「経済的な自立ではない」ことをめぐる葛藤が切実に描かれています。

大正13年、野溝七生子作『山梔』(講談社、2000)の主人公は、非道い折檻を行う父親の元で怯え暮らしながらも読書に耽って育ち、騎士物語や希臘の神話に憧憬を抱き、子供の心で生き続けることを理想とする、誇り高き少女・阿字子。もしあなたが、下卑た世界に辟易して暮らす現代の乙女であるならば、この作品を読めば、九十年も昔に私の心の友がいたなんて!と感激するやもしれません。ところが、結婚という隷属を拒否しようとする阿字子に対し、嫂はこんな台詞をぶつけます。
一体あなたはいつまで、親同胞の厄介になろうというのですか。(略) あなたは、お父様や母様が、なくなりなすったらどうしようと思っていらっしゃるんですか。あなたは結婚しないなどと云っていらっしゃいますけれど、その時になって、もう子供の三人も四人もある人の所に、後妻でも好いなんて、嫁くようになったらどうなさるんです。(『山梔』、410頁)
高原英理氏の『少女領域』(国書刊行会、2000)は、近代以降の日本文芸作品の中に、「高慢と自由」を希求した少女たちの系譜を辿った名著でありますが、『山梔』は、その系譜のトップバッターとしてセレクトされています。これを論じる中で、上の嫂の台詞を受け、高原氏は次の様に問うています。
これは痛い。髪の形や生活習慣については「よけいなお世話」で済ますことができても、この経済的問題だけは逃れられないのである。(略)他者からすればそれ(引用者注:阿字子の個性や誇りといった「最上の部分」)あるがゆえに阿字子は生活不能者たらざるをえない。金もなしに自由であることはできないから、阿字子の自由などは、大正中流家庭の彼女に一時的に、気まぐれな慈悲として与えられた休暇でしかない。それを根拠に自分は自由であるなどとは言えないものなのだ。 どう答える? 阿字子。
(『少女領域』51-52頁)

どう答える?
阿字子への嫂の台詞は、つまるところ、自由だなんだってしかしお前、《誰に食べさせてもらってると思ってるんだ?》という定型句に要約できましょう。
ですが、阿字子と父のように、食べさせてやる者ともらう者との間に圧倒的な差がある場合は、この問いかけは罠です。問われたものは、はいお父様ですすみません、と、一種類の答えしか期待されないからです。阿字子は、父の暴力を憎み、その父に「犬っころのように飼われ」(『山梔』100頁)ながらも決定的な反抗は見せず、むしろ父の家においてくれるように頼みさえします(同382頁)。それもこれも彼女が一人で食べてゆくことができないという、いわば負債を背負っているからでしょう――実際、阿字子ちゃんのお母さんも、女が一人で食べていけさえすれば結婚などするものでないとこぼします(同342頁)





どう答える? 阿字子。
オトメ経済学とはこのジレンマを扱うものであり、この問いかけに答えようとしている点で、時代と事情は違えど、野ばら作品のオトメたちは阿字子の末裔です、(異論はありましょうが)。で、彼女らは、この問いかけにいわば「逆ギレ」で答えます。《誰に食べさせてもらってると思ってるんだ?》 はい貴方ですけどそれが何か?
負債に縛られて身動きとれないなら、踏み倒しちゃえばよい。明快な解決策です。
冒頭に掲げた踏み倒し宣言をもう一度見てみましょう。ここでは最早、踏み倒してやる!という反乱というより、踏み倒すべし、という倫理的テーゼとしてそれは表明されています。そして、そうした特異な倫理が適用されるのは、或いはそれを行使することが許されるのは、彼女が「オトメ」であるから、もしくはもっと端的に、少女であるからに他ならないでしょう。
「桃子」ちゃんの別の台詞も引用致します。
酸いも甘いも噛み分けた人生経験豊富なレディになることなんて私は望みはしません。酸っぱいものは食べたくない、甘いものだけでお腹をいっぱいにして私は生きていくのです。それで虫歯になったなら、私は泣きます。治療が必要になれば、恐いので全身麻酔をかけて貰います。ヘタレと罵られようが、女の子はそれで良いのです。汚い現実になんて眼を逸らしていればいいのです。努力もせず、叶わぬ夢を見続け、何時かはでも、その夢が他力本願で叶うと思っていれば間違いないのです。(161頁)

他力本願でもそれは、「犬っころのように飼われ」ることに甘んじるのは違うのです。オトメには、依存的であることと自由であることが退け目なく同居できるのです。というか、そうした同居が可能であるようなものこそがオトメなのであって、そこに理由はなく、オトメはオトメであるだけでこの恵みを享受する資格があるのです。いや、その享受に耐え得るだけの価値を持つものこそが、オトメなのです。「女の子はそれで良いのです」。

オトメは他力本願で良い、というよりむしろ、他力本願であってこそオトメ、という転倒。 《踏み倒させてね、オトメだもの》でなく《オトメたるもの踏み倒すべし》に至るこの転倒こそが、オトメ経済学のハイライトです。


こんにち、阿字子ちゃんの時代に較べればずっと女の子も自由で(さまざまな事情による個人差はあれど)、世に出ることも経済的な自立も容易くなったはず。とは申せ、そもそも出た先の「世」なんてそんなにいいもの? とオトメらは考えます。そこで。冗談みたいな世の中ならば、あたしだって冗談みたいに生きてやる! ネクタイの結び方を知らなくても生きてゆけるパンクスや、孤高で豪華なロココの貴族のようにね!
――と、――いやいや実際ロココの貴族が孤高で豪華かどうかは別にして―― そんなふうに開き直って起ち上がる元気を、野ばら氏が女主人公の口から言わせるアナーキーな台詞は確かに与えてくれます。ですが、そのアナーキーさが根拠-前提としているものは、何やら、少女の特権性のようなものです。
此処に、われわれは(わたしは)引っかからずにおれません。

先の問いに戻りましょう。
どう答える? と問うた後に、高原氏は、「答えにはならないけれども」と前置きしたうえで、久世光彦の、身体でなく魂において貴族少女たり続けることができるかということが野溝作品の命題である、とする言葉(『昭和幻燈館』晶文社、1987. 198-9頁)を引いています。
久世氏の文章を辿ってみますと、そこには、「少女の貴族性」(同199頁)という言葉で表される、少女の特権性のようなものが前提されているようです。少女の特権性の想定とは、少女というものは少女であるだけであらゆる矛盾を解消してしまえるものだ、というような想定です。つまり、身体の上では又社会的経済的には隷属状態にあろうとも精神は自由であり貴族的でありうる、というアクロバットをしおおせてしまえるのが少女なのである、というような信仰です。
高原氏は、久世氏の言葉を挙げつつも、そのような発想に基づく少女の礼賛を、少女を囲い込むことにしかならないと批判してもいます(『少女領域』41頁)、ですがこうした少女の特権性のような想定は、こんにちにも受け継がれているでしょう。無力無価値であるがゆえにこそ「存在の純粋」(『それいぬ』79頁)であるような、野ばら氏によるオトメ像もまた、パロディ的側面を持つとはいえ、やはりこうした想定の伝統に則ったものです。

すると、野ばら氏の「正しいオトメ」や久世氏の「貴族少女」を、イデア的な大文字の少女とするなれば、一方で、小文字の少女たち、つまり、現実のわたくしたちは、彼等によって想定されているほどに、自分たちを特権的なものとして想定できているのでしょうか?

「女の子はそれで良いのです。汚い現実になんて眼を逸らしていればいいのです」 とオトメ経済学は言ってくれます。だけどそれは大文字のオトメの話。常に不安に晒される、小文字の少女は思うのです。でも、そうして結局誰も助けてくれなかったら? 夢を見続け、見続けているうちに最早、夢見るだけでよいという資格を持つ「オトメ」でなくなってしまったら?
オトメ経済学は、そんなことは想定しません。否、そうした現実があることは大前提であるからこそ、敢えて想定しない、それがオトメ経済学の倫理です、美学です。そんな現実はあり得ないかのように振る舞うこと、そしてそうしているうちに現実をひっくり返すことを夢見ること、それがオトメ経済学の戦略です。しかし、そもそも。
そもそも小文字の少女であるわれわれは、その「オトメ」の中に数えてもらえるのでしょうか。

「泣けば全てが赦されたい」(上引用より)と言うとき、やはりそこには「赦す」他者がいるわけであり、そうすれば、たぶん、美、とか、かわいさ、とか、若さ、とかなんとかその他諸々の、他者の主観が入り込みます(註4)。そうすると、さらにそもそも、借金踏み倒そうにもそれ以前に、美しくも若くもないわたくしに、借金させてくれる人があるのでしょうか。一方で、より大文字の少女(イデア)に近い少女たちも現実に実在するのであるから、では小文字の少女たるわたくしは、あたかも自分のポジとして存在している彼女たちの特権性を羨みつつ、正しいオトメたる資質を与えられなかった我が身をわきまえて、ひとり堅実に成長してゆくがよいのでしょうか。
また、貴族的矜持とは、それが持たざるものの矜持であるうちは良くッても、持たざるものが現実に持てるものに変わったときに、悪いもの、陳腐なもの、汚いものに転化されやすいという危険もはらんでいます。
どう答える? で、オトメ経済学体系には、その問いに対する答えは用意されていません。


ですがここで、大文字のオトメであることを体現しているように見える誰か、貴族少女であるような誰かの特権性を剥奪してやろうと欲しこちら側へと足をひっぱること、つまり、彼女らに、「何様のつもりだ!」という言葉を投げ掛けてしまうこと、阿字子たちよ、君たちの特権性もいずれは失われる幻なのだよさあ身の程をわきまえなさい、と促すこと、それらもまた、罠であるように思うのです。わたしは、それを、したくないのです。

(200409/200801加筆)





註1)
実際のところ統計的にどうであるのかは不明ですが、わざわざ「ロリータですが野ばらファンではありません」と断りを入れる人を度々目にすることから、少なくとも、野ばらファン=ロリータ・ファッション、という図式がパブリック・イメージとしてあるようです。
なお、ロリータ・ファッションとは、原宿なんかでよく見られる、日本のストリート・ファッションの一種で、フリルやレースを多用したお姫さまのような服装です(近頃メジャーになった「ゴスロリ」はその下位分類です)。また、この場合の「ロリータ」は、男性の性的嗜好として「ロリータ・コンプレックス」と言われる場合の「ロリータ」とは同語源であれどまた別ものです。

註2)
「オトメ経済学」が挑むアクロバットは、女性たちが求められたり求めたりしてきた両義的理想や両義的規範が関係しているっぽいという点で、やはりそうした両義性と関わっているであろう、女性に多い諸病理(摂食障害など)にも地続きなのでないかと考えていますが、ちょっと先走りすぎました。

註3)
なお、私は途中までこの作家の作品をリアルタイムで時系列順に読んでいましたが、それは『下妻物語』(2002年)まででした。よって、文中の考察はそれ以前の作品のみを念頭に置いており、記述に偏りがありますがご容赦ください。

註4)
このように書きましたが、野ばら作品のオトメたちに関して言えば、けっしてそれらは可愛く美しくそれによって悠々と生きている女の子たちの物語ではない、ということは注記しておきたいと思います。むしろ、差別される側にあるもの、醜い容貌や身体的欠陥を持つものや異形のものが、単に弱者としてでなく、如何にして矜持を保ってサバイバルするか、ということが、彼の作品に一貫するテーマです。

2013年追記)その後、野ばら氏は『破産』というまさにお金をテーマとした作品を書かれました。(2012年、小学館より)






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