『悪の華』



 



四谷シモーヌ『悪の華――インコ真理教入会マニュアル』太田出版、1996.1

かつてそのルポタージュで佐野眞一は東電OL事件に「発情」した、と述べたが、言い得て妙な表現であって、95年当時われわれは皆まさにオウム真理教をめぐる報道に「発情」していたという言い方が相応しいと思う。
なんで私(われわれ)はああなってしもたんか?ということが、今でも私があの事件が気になり続けている最大の理由かもしれない。
当時を知らない若い人にはあの感じは想像しづらいかもしれない。当時書かれた文章と、その頃のテンションを再現してみせた文章を挙げる。

あの強制捜査から麻原教祖逮捕までの一連のオウム報道は、それまでのテレビのニュースになかったエキサイティングな危うさを持ってこちらにせまり、比類ない面白さを味わわせてくれていた。(略)なにしろオウム幹部の生出演する朝のワイドショーを見るために、僕の友人たちがみな、そろって朝型の生活になってしまったほどだったのだ。みんな、上九一色で発見された薬品の名前を必死で覚え(「メチルホスホン酸ジフルオリド」「メチルホスホン酸ジイソプロピル」などという単語をしょっちゅう繰り返させられるアナウンサーこそいい迷惑だったと思う)、信者たちのホーリーネームの意味を探り、PSI(「パーフェクト・サルベーション・イニシエーション」の略。これも暗記した)なるヘッドギアの効果について考察しあい、逃亡している信者たちの足取りについて、シャーロック・ホームズさながらの推理を行い、さらにオウム関連のくだらない駄ジャレや替え歌を山ほど作った。
(唐沢俊一「オウムと大衆」『あれは何だったのか? 「オウム」解読マニュアル』ダイヤモンド社、1995.6、152頁)
社会に関心が極薄の会社でも瞬く間に会社中の話題がオウム一色になった。いや、日本中がそうであった。ワイドショーから糞みたいな芸能人ゴシップが消えた。すると、聞き慣れない単語が続々と耳に入ってきた。殺人極悪集団に似つかないポップでキッチュでエキセントリックで、なんちゅうか楽しげな単語だ。オウム真理教の実行犯、幹部の名前が連日報道された。「ウッパラヴァンナー」、「マハー・ケイマ」、「マンジュシュリー・ミトラ」(略)。「水中クンバカ」―クンバカって何だよ!しかも水中かよ! 「ニューナルコ」―ニューって言われても、そもそもナルコって何だよ! 「サリン噴霧車」―世界で一台だよな! 興味をそそる言葉で凶悪犯罪はカモフラージュされ、被害者への慈しみの気持ちと、下種な野次馬根性とがコントロールできなくなった。
(YASUO-ANGEL「まえがき」、『オウム真理教大辞典』東京キララ社編集部編、三一書房、2003.3-4頁)

当時のわれわれの浮足立ちぶりがいきいきと伝わる文章である。オウムをネタとして消費し興奮しながら、ふとそれが被害者のいる残酷な事件であることを思い出しやりどころのない気持ちになる――それが当時の大方の人々のあり方であったと思う。

そんな中、自分たちの「発情」ぶりを棚にあげて、マスコミが非難しつつ面白おかしく扱ったのが、「上祐ギャル」と呼ばれる女性たちであった。
教団側の広報責任者として連日テレビに出演し始めた上祐氏は一躍メディアの寵児となり、彼のファンであるという人々が現れた。メディアは、オウムネタをさんざんおどろおどろしく、或いは面白おかしく報じた後で、「上祐ギャル」の生態を取り上げて「まったく何を考えているんだか」と憤慨してみせた(彼をスターにしたのは誰だと思ってるんだ、という話である。)
たしかに凶悪事件の加害側であるとされる教団の幹部に「ファン」がつくという現象は(珍しい現象ではないが)喜ばしい現象とはいえないかもしれず、彼女らは被害者の気持を慮っていないように見えても仕方なかったかもしれない。だがこの現象はけっして特異なものではなく、オウムをめぐる当時のわれわれの「発情」の象徴のような現象であったと考える。
また「上祐ギャル」たちは「上祐ギャル」であることにまったく無自覚であったわけではないだろう。大泉実成『麻原彰晃を信じる人びと』(洋泉社、1996)は、事件後の教団内部に取材した優れたルポであるが、著者が知り合った「上祐ギャル」の文章が引用されている。取材されお礼を言われても、いざ記事になるとマジメに事件について語った箇所はカットし「救いようがない」「アホバカ」として報じるマスコミに彼女は憤っており、憤りつつも、「確かにそれは当たってるから、何も言えないんだけど(笑)」(p.139)。


さてそうした「上祐ギャル」現象の周縁として、上祐らオウム幹部をモデルとする「やおい」同人誌を作った女性たちがいたことは、当時から気になっていた。
(念のため)「やおい」とは女性による女性のための男性同性愛を描いた漫画・小説の総称で、今では「BL(ボーイズラブ)」の呼称が一般的であろう。
東スポが一面で(例によってミスリーティングを誘う見出しをつけて)取り上げたこともあったが、ワイドショー等では報じられていた記憶がない。不謹慎すぎると判断されたのか、不可解すぎたためか。昨今は「腐女子(※BLを愛好する女性)は男が二人いればBL妄想を始める」なんて笑い話のように語られるようになっているのでそうそう驚かれないかもしれないが、当時はセンセーショナルかつ奇怪な現象に映っただろう。東スポの他は、『週刊朝日』の記事「マンガ同人誌界に氾濫するオウム・キャラクターの危うい魅力」で、オウム同人誌が同人誌即売会で流通していることを取り上げている(1995.9.8号:152-153)。
上で挙げた大泉のルポに現れる女性も同人誌作家であったようで、「同人誌作家の目で見ると、オウムってたまんないっす。上下関係がはっきりした世界だし、キャラが強いし、ホーリーネームもあるし」(大泉・前掲書・p.138)と語っている。大泉は彼女らの行動を、上祐らのイメージと戯れることによって成長していくプロセスであると肯定的にとらえ、事件や宗教のことまで考えながら創作に取り組む彼女を、「『オウム真理教問題』という教科書を、もっとも真剣に読んだ一人なのだと思う」(p.139)としている。

同人誌の多くは今では入手困難である(私もここで挙げる作者のもの以外は目にしたことがない)。そうした中で唯一公式に出版されたのが、四谷シモーヌ『悪の華−インコ真理教入会マニュアル』(太田出版、1996)である。 (いろんな意味ですごい版元、太田出版……。)
オウム事件が、男性幹部たちの愛と性の物語として書き換えられ、その中にはオウムに関するトリヴィアルな情報がちりばめられている(上祐の九年間禁欲エピソードなど)。あくまでフィクションという体裁ではあるが、読めば誰がモデルかは明らかに分かるようになっている。実在の人物をモデルとした性描写含む作品を出版するって倫理的にどうなの、等の議論もあろうが、ここではひとまず措く。


作者は、当時既にプロ漫画家であった人。太田出版から出版されたのは、1995年5月〜12月に変名で出された同人誌(こちらは小説家との共作)から4作品を一冊にまとめたもの。
漫画には、作者による詳細な注が付されていて、その注やあとがきでは、時にミーハーでありつつもオウムについて真面目に考察されている。これは「上祐ギャル」の肉声の中でほぼ唯一、書物形態で残っているものでもあるのでは?
彼女もまた、当初「なんだかなぁ」と思いつつ報道を見ていたはずが、いつしか上祐ファンになってしまったのだという。「カレが犯罪に加担していようが、カレの話に一貫性がなかろうが、テレビのキャスターが不謹慎だと眉を顰めようが、南青山に群れ集っていた女子高生のごとく、うちの近所のオバサマ達のごとく、カレに血道を上げ、雑誌・スポーツ新聞を買いまくり、朝の5時55分からビデオテープを用意しまくり、朝のワイドショー・昼のワイドショー・夕方のニュース・夜の特番・夜のニュースを見まくる日々を過ごしたのでした」(p.181)。3月下旬から10月上旬まで慢性の睡眠不足になった自分への、「我ながら、バカだねえ」という自嘲。「上祐ファン」でなくても当時こうした症状を来していた人は多いはずだ(私もその一人であった)!
「マイちゃん」(作者は上祐をこう呼ぶ)についてはこう語られる。「結局私が知りたいのは、マイちゃんが何を考え、何を目的としていたのか」。この現代で「絶対的価値」を信じている彼には善悪は別にして美学を感じる、そして「私としては出来ることなら、マイちゃんが、その美しいエネルギーを、今までして来たことの逆の方向に転化させ、今まで以上に燃え上がらせてくれることを祈るばかりです」(pp.167-168)。

4編の漫画作品は、「インコ真理教」とサブタイトルこそふざけているが(ちなみに大作家・大西巨人が2005年に発表した小説も『縮図・インコ道理教』であったよ)、ストーリーはシリアスである。
巻頭の作品「約束の地」は、教団広報部幹部「上有」と顧問弁護士「蒼山」の物語。信仰に打ち込む純粋な「上有」は、能面のようで何を考えているか分からない「蒼山」が気に入らない。だが「上有」に思いを寄せていた「蒼山」の誘惑を受けてしまう。「上有」よりも俗世を知る「蒼山」は言う。「来世を考えるその前に今生のことを全て知って下さい」「この現世にも気持ちのいいことはたくさんあるんだよ?」。教義に疑問をもつ「蒼山」は、自分にとって「上有」こそが「約束の地」なのだと言う。
「約束の地」の続編「最後の晩餐」は、近く「蒼山」が逮捕されることを互いに知りながら愛を交わす二人の物語である。気にくわなかったはずの「蒼山」を愛し始めた「上有」は、愛される者と引き裂かれる悲しみを知ったことで、これまで教団がしてきたことの罪深さを思う。だが二人は生きて贖罪の道を選ぶ――。

「やおい」を知らない人が見ればずいぶん異様に見えよう。だが、性関係のない(と思われる)ところにそれを妄想するのは「やおい」の常道で、東浩紀は「やおい」の欲望を「ホモソーシャルな作品をホモセクシュアルに読み換える」(『網状言論F改』青土社、2003. p.151)と端的に表現しているけれども、オウムがその欲望を喚起するのは、私はよく分かる。(実際の教団がどうだったかは別にして、ゴシップ的に報道されたオウムはホモソーシャルな世界だった。弟子が尊師に女性を供養する、など)
本作は、教団の秩序からの脱出物語になっている。禁欲の教義を守り、俗世を否定してきた「上有」が、それに疑問を抱く「蒼山」の導きによって愛に目ざめ、それによって本来の信仰の動機を取り戻す――。ここには作者の「マイちゃん」への思い、願いが込められているのだろう。そこに実際のエピソードが効果的に織り込まれている。二人のセックスシーンには、「それは信じられないほどでした――/初めてインコ真理教の信者全員の合唱を聴いた時――背骨が揺れて熱くなり……/とろけるような快感が突き上げてきて――」という独白が重ねられているのだが、これは実際に青山が入信のきっかけとなったオウムのコンサートでの体験を語った言葉である。
当時オウム信者に対して、「教団で修行するよりもっと世俗に揉まれろ、恋愛をしろ」という言い方がよくされていた。私はこれを「サリン気分」(by切通理作)に倣って「晶子気分」と呼んでいたのだが(「淋しからずや道を説く君」)、オウムは多くの人・多くの論者の「晶子気分」を喚起したようだ。オウムの「やおい」も、晶子気分の近縁にあるように思う。ただ、そこで描かれる恋愛・性愛は、男性信者同士の・架空の関係性であるわけだが。

興味深いのは、本作には、単なるポルノグラフィーに留まらない要素が多々あることだ(ヤマもオチもイミもちゃんとある! 優れたBL作品全般に言えることであるとは思うが……)。
「最後の晩餐」では、「上有」は幼い頃に父と別れた青年として書かれている(作者は注でも、オウム事件を父性をめぐる問題として分析している)。物語のラストで、眠りに落ちた「上有」は小さな子供に戻ってゆく。「おかーさん/ごめんね…僕間違えちゃった/でも/今度こそちゃんといい子になるから」。次のコマでは「いい子ね文浩/いい子」と腹を撫でる母の姿が描かれている。贖罪と胎内回帰、そして再生の物語になっているのだ。
さらに、本書には収録されていない作品(同人誌にのみ掲載)は、もはや「やおい」ですらない。煩悩を断ち切るため自ら去勢し「男でもない、女でもない、真理のための道具」となった「上有」の物語が描かれている。作者のいうところの「絶対的価値」を信じる美学、それにまつわるタナトス、そして無性化のファンタジー。このあたりに、私(われわれ)があんなにオウムに「発情」してしまった理由もあるんでないか?と思う。

私が知る中で唯一詳しく四谷氏の作品に言及しているのは、唐沢俊一『カルト王』(幻冬舎文庫、2002)である。キワモノ的なネタのひとつとして扱われているので揶揄的な記述もある。だが、頷けるところもある。
「やおい」が「女性たちの、自らの肉体に対する嫌悪感の現れ」であると考える筆者は、それが「肉体からの『解脱』を目標とするオウムの教義に、なんとスンナリ重なることか」(p.175)とする。そして、「そこに含まれているメッセージからは、作者たちが、いかにオウムのメンバーに自分たちの心情を投影させているかがよく伝わってくる」(p.176)。「やおい」を単に女性嫌悪と男性への復讐にのみ帰す論には、今なら「腐女子」たちから多くの異論も出ようし、私もそれだけではないと思うが(というか「やおい」論には膨大な先行文献もありここでそれに触れだすと話が逸れまくるので触れない)、たしかにこの作品(『悪の華』)を読む限り、作者が或る種の共感をもってオウムを描いていたことはたしかだと思う。

私が実際に四谷氏の作品を目にしたのは事件からずいぶん経った頃であったが、事件当時、オウムの「やおい」があると知って「分かる!」と思ったことを覚えている。
四谷氏は、あくまで架空の話(という体裁)であっても、被害者の存在する事件を描くことの葛藤についても書いているが、同時に「それでもあのキャラでヤオイを描いてみたくて仕方がなかったのよ!」(p.182)とその衝動を語っている。それはたしかに昨今よく言われる「男が二人いれば妄想をしてしまう腐女子の習性」みたいなものなのかもしれないが、やっぱりそれだけでないと思う。オウムに性的ファンタジーを喚起されてしまう・自分のファンタジーを投影してしまう衝動は、私には非常によく理解できたのだった。だがその衝動が何であったのか・つまりオウムの何がそんなに私(われわれ)を「発情」させたのかが未だに上手く言語化できない。で、これが未だにオウムが気になり続けている理由のひとつであるわけだが。

そこにはたしかに、唐沢のいうような、オウムへの一種の共鳴があったのかもしれない。
そして、肉体をもちつつ肉体から切り離されているような「やおい」のエロティシズムはたしかにそれと、親和性があったのかもしれない。


「上祐ギャル」現象とかオウムの「やおい」とかは、メディアで言われたような、単に「ちょっと顔のいい教団幹部がTVに出てたからバカ女どもがキャッキャッ言った」のでなく、もっと深い、オウム事件(を取り巻くわれわれの発情)の本質と関わる現象であったと思う。或いは彼女らが「バカ女」であったのであれば、オウムにあれだけ「発情」した者たちが、同じようにバカ女でありバカ男であったはずだ。さかんに「現世で恋愛をしろ」と説教した批評家たちも、「美人女性幹部」を特集して書き立てた週刊誌も、女性幹部はヌード写真で社会復帰すればいいといった男の写真家も、何か語らねばおられない気持ちで浮足立って大誤報を流したマスメディアも、皆、同じような要素に対して別々の「発情」の仕方をしていたのでないか。
そうした中で、「上祐ギャル」現象や「やおい」現象という一見バカバカしい現象には、それが最もクリティカルに、かつ正直に現れていて、その当事者たちは真摯にその「発情」に向き合ったひとたちだったのでないかと思う。  



2016.5記す








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