井上順孝・責任編集、宗教情報リサーチセンター・編

『情報時代のオウム真理教』春秋社、2011







タイトルから、メディアとオウムの関わりを抽象的に論じた本かと思っていたら、具体的で詳細な資料の分析だった。
第1章はオウムが発信していた情報の整理と分析、第2章はメディアを通じて発信されたオウムについての情報の分析、第3章はその他オウムが日本社会・宗教研究に対して投げかけたことを考えるうえで手掛かりになりうるテーマ、という構成になっている。

まず、序論で、本書が編まれた経緯が説明されている。
一連の事件後、宗教法人解散によって教団の所有物は破産管財人の手へ渡り、資料収集が困難になった。そこへ1997年の「サティアン」取り壊しにより、破棄される資料(ビデオやテープ含む)が出てきた。それをちょうどそのころ設立された公益財団法人・宗教情報リサーチセンターが保管・整理することになったのだという。
そして、 「実際に資料・データ類を扱ってみると、非常に多くの知識が必要とされることがあらためて感じられた…(略)…『似非宗教である』と感情的に断罪するのはたやすい。しかし、その断罪がどこに根拠があるかを少しでも示そうとするなら、多くのことに目を配らなければならない」(14頁)。

全体として、驚くような目新しい見解はないかもしれない。が、膨大な一次資料をもとに各角度から、これまでになんとなく言われてきたこと(そして現在忘れられつつあること)が実証的に確認された点だけでも画期的だと思う。資料の分析は大変な作業であっただろう。個人的には、トリビアルな情報で新たに知ったことも多かった。

以下、そんな個人的にヒットしたトリビアル情報も含めて、各章で気になったこと・知ったことをメモ。(バランスよい要約でなく個人的に気になったところ中心のメモです。)

■序論

第1章:「地下鉄サリン事件以前のオウム真理教」(井上順孝)
全体の研究意義について書かれた章。
「オウムは宗教といえるのか?」というよく発された問いについて、「テロ集団/宗教団体」は別に二項対立ではなく、本書ではオウムを「宗教的真理を伝えると主張する人・それに従う人の宗教団体として見る」と答えている。一見言うまでもないことのようだが、事件当時オウムが「あんなの宗教じゃない」で片づけられがちであったことを思えば、重要な指摘なのでないかと思う(この言い方が宗教界の自己保身的に使われていたのでないかということも指摘されている)。
現代宗教全般については、現代宗教の研究者は少なく、現代宗教についての情報はマスメディアが先行し、マスメディア主導の理解のフレームができやすい、との指摘も。

第2章「オウム真理教事件の源流」(藤田庄市)
『超能力「秘密の開発法」』の頃から教団が「ヴァジラヤーナ」に向かうまでの軌跡を追った章。かなり初期から暴力の種子があったとする論。
私はオカルト関係には疎いので知らないことが多かった。「ヒヒイロカネ」がもともとオカルト的言説では伝統的なものであったことや、酒井勝軍という人の存在など、(詳しい人は詳しいんだろうけど)を初めて知った。

■第1部

第1章「教団の映像メディア利用」(高橋典史・宮坂清)
「オウムが映像メディアを活用して特権的存在としての麻原への帰依を深めさせようとした」という結論はさほど新奇な指摘ではないだろうが、膨大な映像資料を布教用・入門用・修行用……と分類してその特徴を分析した作業が凄い。事件当時、オウムのアニメや終末論を訴える映像はよくワイドショーで取り上げられていたが、修行用ビデオ(ヨーガの説明など)は多くの人が見たことないのでは? (キャプチャを見る限り実にアシッドな映像!)。
サマナ300人アンケートに基づく好きなビデオランキングも興味深い(一位は「情報汚染社会」。有名な「超越神力(天耳通)」はランクインなし)。
外部向けの布教・信者向けの教化といった「ソト」と「ウチ」の両面にオウムがターゲットを据えていたことが分かるというのも考察のひとつで、この「ソトとウチ」というのが本書に通底するキーワードとなっている。(2015年には同センターから『〈オウム真理教〉を検証する: そのウチとソトの境界線』という書籍も出版されている。こちらは現時点で未読。)

第2章「オウム真理教ラジオ放送における教化・布教・広報」(矢野秀武)
オウムはロシアで放送枠を入手していたのだが、その意義として、日本語ゆえ放送局・スポンサーの意向に左右されず発信できたこと、世界に向けた布教メディアとの位置づけができたことが挙げられている。ラジオは、信徒と未信徒の双方をリスナーとして想定していた(やはり「ウチとソト」である)。「武装化」の進行と同時に、未信徒向け枠が拡大されイメージアップ活動の手段としてラジオが活用されていたという。
オウムのメディア・ミックスの中でラジオの重要性は、「麻原の生の語り」を提供していたこと、音楽を提供できたこと、また、筆者が実際に聴いた番組(1994.12以降)のものは「出演者たちの普段の姿や飾り気のない素顔が見えるような番組」であったとのこと。ジョークを飛ばしたり、番組中に居眠りしてしまったりもしていたという。
注にわざわざ、『新世紀エヴァンゲリオン』より「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」の方が時期的には先だと記されているのがなんだか可笑しかった。しかしわざわざこんな注が必要になるほど90年代が遠くなったのだな。

第3章「麻原彰晃の「対機説法」」(碧海寿広)
「説法テープ」を分類・分析した章。非信徒用・在家信徒用・その子弟用・出家者用・直弟子用に分類し、ソト/ウチへの語り分けが或る程度システマティックにされていたとする。
この見解自体も新しいものではないかもしれないが、説法内容の具体的な分析・紹介が興味深かった。在家/出家が「原子力エネルギー」の開発/破壊に喩えられる説法や、「カンニングしている者があったら、構わず殴りつけろ」「いじめを許すといっているんだ、私は」(1991)という語り口など。
ただ語り分けの分析はあくまで特徴的なものだけであり(語り分けられていない部分も多い)資料の時期的限定もあるとのことで、オウム資料研究というのはほんとうに困難であろうなと思う。

第4章「「オウム音楽」の多層性」(藤野陽平)
オウムの音楽には非常に興味があったので最も楽しみにしていた章。当時、ワイドショーを通じて聴いたオウム音楽には、率直にいって魅力を感じたのだった。(今でも故村井氏の歌う「味覚の歌」などすごいと思う。)そもそも宗教と音楽の関わり自体が興味深い。
最初に、オウムにおける音楽の意義・位置づけが紹介されている(アストラル音楽は高位のチャクラに響いてステージが上がる、等々)。麻原は、普通の旋律とは異なる神々の使者として意識に現れた音を表現しているので「わたしの歌が音痴であるということは正しい」「わたしが音痴なのは当然」と述べていたそうだ。
シンセサイザー中心の「アストラル音楽」やキーレーンのオーケストラにも少し触れたうえで、本章は歌モノを中心に分析しており、オウム音楽をソトの曲・ウチの曲・ウラの曲に分類している。よく知られているソトの歌はごく一部であり、麻原の名を広告するようなものであるのに対し、出家信者向けの「ウラの曲」は暴力や殺人を肯定するような詞であり、音楽の使い分けには高度な戦略性があったとする。歌詞だけでなく曲調も異なるとの分析(ソト=マーチ・ポップス調/ウチ=ポップス・クラシック・民謡調/ウラ=軍歌調)が面白かった。他、作曲技法(?)や影響関係なども知りたいなあ。
オウムの音楽に関しては当時ワイドショーなどで「ショーコーショーコー」「私はやってない」が断片的に流されるばかりで、そのバリエーションはあまり知られていないと思うので、貴重な研究。(ちなみに「エンマの数え歌」の「私はやってない〜♪」は、「亡者が閻魔の前で言い訳をする」という物語仕立ての詩の一節を抜き出したもので、当時言われたように「麻原がサリン事件の潔白をしらじらしく主張する歌」ではない。)

第5章「オウム真理教が社会に向けて刊行した書籍」(塚田穂高)
ここでも「初期の超能力重視から終末論の前景化へ」という見解自体はよくあるものだが、オウム書籍を体系的にまとめた論文って意外に他にないのでは?(管見の限り……だけど。)
当初は年に数冊の刊行であったが、91〜93年に年数十冊の刊行ラッシュが始まる。シリーズ物や巻末に言語対照表(従来の仏教訳語をオウム流に言い換えたもの)がつくのはこの時期のものである。91〜93年書籍群の特徴として、宗教的能力を科学的に実証しようとする姿勢・教義を分かりやすく体系化する試み・社会的批判への反論 などが挙げられている。
あまり見たことのないものも紹介されていた。たとえば「受験生必携の書」として故事成語をオウム的に解説した『もりもり智慧のわく書』シリーズなど。あまり印刷されなかったのか、あるいは事件との関連では話題にならなかったからか?

第6章「オウム真理教における説法の変遷」(弓山達也)
基幹機関紙(『マハーヤーナ』など)を中心とした分析。
信徒向けになった43号(1991年)から、説法の質疑応答がカットされるなど「ライブ感」がなくなり双方向から一方向的になったという。
1995年7月の『ヴァジラヤーナ・サッチャ』の出家者アンケートでは、オウムを選んだ理由として、「本を読んで納得して」がダントツトップになっているという。筆者はそのオウム出版物の魅力として、センセーショナルな「奇跡」を「科学」的に説明する主張を挙げている(第5章での指摘と同様である)。だがその「実証」性が分かりやすさの一方で恣意的になり、その恣意性が教義の説き分けとともに信仰の硬直化をもたらしたのだとする。

第7章「教本類からうかがえる教学内容」(平野直子)
教本類=教団の中でのみ流通していた印刷物を分類・分析した章。一般には手に入りにくい資料であろう。
教団内では、説法が掲載されたものの取り扱いに注意し信者以外に対しては別の媒体(市販書籍やラジオなど)を用いるよう言われていたとのことで、ここでも、ソト向けとウチ向けの情報が注意深く区別されていたことが窺えるという。『サマナ新聞』『成就に向けて』などの出家者向け広報誌は、内容は説法のテープ起こしなどだが機関誌『マハーヤーナ』と異なりやりとりが忠実に再現されており、在家や非信者に読まれないよう注意されていた。
「基礎/教学特別システム」シリーズの紹介も、「教学」って具体的に何をしていたのか疑問だったので、ごく一部だが実物資料が掲載されており貴重である。教学ドリルの穴埋め問題が載っているのだが、説法の丸暗記を促す点で「正記憶修習」にもかなった方法であるとのこと。いわゆる「データの入れ替え」をして「グルのコピー」を作るひとつの方法だったのだなと思った。(同時に普段触れている受験勉強を思い出し、勉強とは或る意味で怖いものだと感じた。)教学には過程があり、課程に合格するごとに称号がもらえたようだ(実際どこまで使われていた称号かは分からないが)。たとえば四課に合格すると「現世苦悩一切解除の法の説法士」とか。面白いのは、「教学」の重要さが解かれていたものの、出家者は「ワーク」で忙しく教学をできなかったという話である(しかも教本類の中ではワークが勧められている!)。広報誌に載った教学の到達度一覧では、高位の幹部でもまだ「入門」だったという(なぜそんなん載せたのか)
内容の分析では、事件に関わっていそうな教義と時期との関係が注目されている。唐突に「殺人のカルマ」説法がなされたのは1988.9.11であるが、オウムで最初に死者が出た真島事件は9月下旬とされており、この説法と関係があるのでは?など。オウム事件にはまだ解明されていないことや十分に吟味されていない資料が多くあるのだと分かる。

■第2部

第2部はメディアにおける言及の分析。95年3月以前(つまり地下鉄サリン・上九強制捜査以前)の情報が中心に集められている点で珍しく貴重。マスメディアでは大方、批判的(坂本事件後)→好意的(朝生出演などの頃)→批判的(94年頃〜) という流れが見られることが分かる。

第1章「新聞報道の中のオウム真理教」(隈元正樹)
地下鉄サリン以前事件以前に、オウムに関する新聞報道が集中しているのは90-91年の波野村国土利用計画法違反事件であり、最初にオウムが取りあげられたのは、89.10.26の、オウムによる牧太郎告訴事件だという。
坂本事件に関する報道では、当初教団名は明らかにされておらず、ボンでの麻原会見を受けて明記する形となったのだという(89.12.1)。その後スポーツ紙がセンセーショナルな報道を行う。この事件には「赤報隊説」も出ていたなど初めて知った。小学生だった私は、坂本事件の報道の記憶がほぼないので、この章は「当時はそんな感じだったのかあ」と分かることばかりで有難かった。
以後、節目節目で坂本事件の報道は見られるもののオウムと関連付ける報道は減り、関連づけたものでも教団名は伏せられるようになる。衆院選や石垣セミナーについては、普通の全国紙よりもスポーツ紙と夕刊紙が大きく取り上げるのだが、90年の国土利用計画法事件では全国紙で大きな報道が見られる。筆者はこれについて、それまで慎重だった全国紙が「待ち構えていたように」報道を出し、「麻原の主張を鵜呑みにするわけではないが(略)いわば『別件報道』の感がないわけではない」「当局が動いていわばお墨付きが出た状態で、一気に社会に警鐘を鳴らした」(p.233)と表現している。結論でも、新聞(全国紙)報道の、宗教問題を扱う際の姿勢の弱さが指摘されている。

第2章「オウム真理教と雑誌報道」(平野直子)
まず本章でよかったのはなんといっても、サンデー毎日の「オウム真理教の狂気」シリーズの詳細な分析がなされていること。サンデー毎日のオウム批判は一見ステレオタイプな「淫祠邪教」観に即しているように見えて、決して安易にステレオタイプに乗ったのでなく、回を重ねるつれ批判のポイントが絞り込まれていったこと、オウムを生む社会的背景への考察も見られること、を示し、こうした両者の言い分を慎重に聞くうえで批判にふみきった姿勢は、イエスの方舟事件の教訓からであろうとしている。
だがこのときオウム批判の言葉として使われていた「狂気」「反社会的」という語は、その後、中沢新一らとの対談の中でむしろオウムの教義を評価するものとして用いられることとなる。「オウムと社会との関係は、雑誌に掲載されたことやその内容によって作り上げられている部分がある」(p.245)。


第3章「テレビが報じたオウム真理教」(小島伸之)
オウムが最初にテレビで取り上げられたのは89年10月、サンデー毎日の特集の後追いの形で取り上げられた。当時の「こんにちは2時」(テレ朝)を例に、初期オウムワイドショーの問題点が分析されており、信者家族vsオウムという対立構図を作ってそれぞれに主張を展開させ、司会者やコメンテーターは度々教団への批判を抑制する役割をし、これが結果的にオウムの自己弁護手段として利用されたという初期報道の問題点が指摘されている。
この時期についての興味深い報道として、89年のボンでの会見の際、TBS石丸純子レポーターが早川紀代秀について「以前会ったときに比べ憔悴していた」などのレポートをしていたということ。当時そんなに明確な鋭い観察があったのかと驚いた。(にも関わらず解決に生かされなかったわけだが。)
打って変わって91・92年については、「オウムワイドショー報道の空白の2年」という軽部アナの言葉が引用されているが、これは前章・前々章の新聞・雑誌報道の傾向と同様で、この間はオウムに代わって幸福の科学、統一教会が取りあげられていたという。一方でオウムは91年には、朝生(9月)、とんねるずの生ダラ(11月)、TVタックル(12月)などの番組に出演し、「時代を代表する新宗教」取りあげられていた。このとりあげ方もやはり雑誌報道の後追いと考えられる。
(ところで私がオウムの名を初めて聴いたのもやはりこの頃だった。ワイドショーの新興宗教特集で様々な面白おかしい映像が流された後、オチとして「オウム真理教だけでなく九官鳥真理教もある!」と珍妙な格好をしたおっさんが出てきたのだが、あれはいったいなんだったのだろうか……。)
さて、94年になると再びオウムに関する報道が増えるが、それもトラブルがあるたびに単発的に報じるのみで、疑惑に関する検証を継続的に深めたりそれにより犯罪性を推察したりすることはなく、「あくまで話題性の消費」にすぎなかった。オウムがテレビにとって単なる「ネタ」の一つでしかなかった端的な例として筆者が挙げているのは、『進め!電波少年』にて松村が青山総本部に「アポなし取材」に行き追い返されるという企画である。

第4章「事件前の『オウム論』書籍と学術研究」(塚田穂高)
事件前のオウム論はそもそも数が少ないが、学術論文は知らないものばかりだったので有難い。気になったところとしては、尾堂修司「オウム真理教の修行体験」、深水顕真「布教形態の特性に見るオウム真理教の教義と概要」など。
興味深かったのは、島田裕巳の論の批判的分析である。「宗教を文化現象・社会現象として読み解く姿勢は、その宗教の特性の分析を手薄にしてしまう」「島田に限らず、文化的・社会的・経済的背景への還元を図る学術研究全般に生じてくる問題点である」(292頁)という指摘は耳が痛いところかもしれない。とはいえもちろんそれらの視点も絶対に大事ではあるわけで。

■第3部

第1章「真理党の運動展開と活動内容」(塚田穂高)
オウムの衆院選に関しては、「ヘンテコな歌とお面」は広く知られていても、それ以外のことは意外に知られていないのでは。本章では、実際にどのような政策が掲げられどのような選挙活動が展開されたが詳細に再構成されている。「政教一致の党を作る」と明言され、「消費税廃止」「医療改革」「教育改革」「福祉推進」「国民投票制度導入」を政策とし、選挙戦と並行して東京4区の人には、会員制で有機野菜が「ガネーシャ帽のお兄さん」によって配送されるサービスが行われ(「麻原彰晃の消費者共同体」、いつまで続いたかは不明)、公職選挙法違反の恐れが指摘されていたとか。
また、得票数を見ると、真理党では麻原の1783票に次いで中川智正が1445票を集めていたという。これは知らなかった、何故……? 筆者も「中川がなぜこれだけ取れたかは不明である」(p.322)と書いている。
落選後、麻原が「票の操作をされた」と主張したことは有名だが、本章ではその主張のロジックが詳しく紹介されていた。何人かの弟子に本名(松本智津夫)で投票させ、開票立会人の野田にそれを確認させようとしたが見つからなかったのだという。「私が当選するはずという予言と、惨敗という現実が、一票が見つからなかったという些細な事実を持って結びつけられ、陰謀論的思考を肥大化させていく過程を看取できる」(p.324)。

第2章「オウム真理教の試みたさまざまな事業」(藤野陽平・高橋典史)
オウムがさまざまな事業を行っていたことは有名だし、その内実もすぐに調べがつくんじゃないか、と思いきや、この研究もなかなかに困難であったようだ。たとえば、夕刊フジで報じられたテレクラの経営などは今では確認できない。教団が公にしていなかった可能性もある。たった15年(本書刊行当時)ですっかり分からなくなってしまうことがたくさんあるんやなあ、と思う。
本章では、教団刊行物の掲載情報をもとにオウムの企業活動の一端を辿っている(「うまかろう安かろう亭」の「ハルマキ丼」!「ポアカレー」! 話題になったけど本当にあったんだ)。それによると、教団資料に見られる営利活動は基本的に宗教的世界観に基づいたものであり(占星術、オウム・ダイアル、サットヴァ食品etc)在家信者を対象とした宗教活動の一環といえる。高額でもなく「暴利をむさぼっていた」という理解はできない。が、その一方で 公にはしていない営利追求の活動があった(有名なPC販売も教団出版物からは確認されない)。

第3章「森達也監督・映画『A』『A2』をめぐって」(小池靖)
両映画の評価された点と批判された点を簡潔にまとめた章。
結語で「社会の排他性批判」「自分探しとしてのオウム論」でない「第三の視点が、現代宗教研究にも求められている」(p.345)と述べており、つまり歴史的な宗教の功罪をふまえた視野、ということなのだが、それよりもこの「自分探しとしてのオウム論」という表現が気になった! というのはまさに私のオウムへの興味は、そうした面(「自分」への興味と強くかかわっている面)があるからなのだが、なぜ「オウム論」が「自分探し」になってしまいうる、ということが多く(?)の人において起こりえたのか!? この点がまず(自分にとって)大きなテーマである気がする。

第4章「オウム真理教からの脱会者たち」(小宮ひろみ)
強制捜査以前の脱会者4人の語りから、脱会者がとらえた「オウム」を示すという章。いわゆる「マインドコントロール」論で語られるのとは違う、自発的に疑問をもつ信者像が示されており、「元信者たちは、安易に自己を『教祖』に委ね、ひたすら信仰するばかりだったわけではないことが見えてくる」(p.356)。

第5章「オウム真理教と陰謀論」(辻隆太朗)
オウムの陰謀論は「既存の陰謀論言説を取り入れたものであり、独自性は乏しい」(p.369)らしいが、私は陰謀論業界(?)には詳しくないので、陰謀論をまとめた表を感心して眺めた。
陰謀論が時系列に分析されており、「マスコミの洗脳」という主張やフリーメーソンの名は80年代末に既に出ていたが、はっきり言及されるのは衆院選後である。その後しばらくは言及がなく、92年以降に、いくつかの時期に集中して言及が増加する。いくつかの時期とは、ハルマゲドン予言が強調された時期や毒ガス研究が始められた時期など、オウム側が何らかのアクションの起こした時期と対応している。物質主義が世界を誤った方向に向かわせているという初期からの教義に変わりはないが、陰謀論の導入により、非人称的なカルマや法則でなく排除すべき悪者が具体化された、という分析がなされている。
しかしこの、まさに「殴った子が殴られたと言って泣く」的な、オウムの「武装化」と陰謀論の併行過程には、陰謀論がネトウヨ的言説においてネット言説を覆いつつある今日において、非常に重要なものがある気がするなあ。

第6章「ロシアにおけるオウム真理教の活動」(井上まどか)
オウムのロシアでの活動も、具体的にはあまり知られていないのではないだろうか。私も、それほどたくさん信者がいたことすら知らなかった(1万人とも5万人とも推定されている)。ロシアでの教団拡大の過程や、「武装化」との関連、事件後の顛末などが詳しく書かれており、ロシア語が読みこなせる人しかできない研究である。
ロシアで教団が拡大できた要因としては、要人や知識人を利用した権威づけやマスメディア活用だけでなく、日本に対するプラスイメージ、(サマナになることでの)物質的援助や(所属しているという)ステータス、そして「精神世界」への興味が背景としてあったという。「精神世界」への興味については、バラグーシュキンの見解を基に、ロシア正教会への不満・魔術や民間療法の身近さ・チベット仏教への関心の高まり・ソ連崩壊後における19c末〜20c初の思想家の再評価、といった背景が紹介されている。

第7章「国外のオウム真理教研究」(渡辺学)
海外のオウム研究はやはり事件後のものばかりではあるが、ジャーナリズム、宗教学、精神医学など多様なアプローチがある。 初期には小説仕立て?のものもあったとのこと。

第8章「宗教法人解散とアレフ・ひかりの輪」(井上順孝)
解散後の教団の足取りの包括的解説。「ケロヨンクラブ」の傷害致死事件などたった10年前なのに意外に忘れていることも多い。
最後に、学生意識調査(母数4〜6千人)の統計が示されているのだが、意外なのは、「オウム報道への興味」が2010年になっても1997年からそれほど大きくは変わっていないこと。だが、サリン事件への関わりなどは2010年になってもよく知られているが(当然か)、「サティアン」のような用語は2005年時点と比べて急速に忘れられている。それはそうだ、もう現物がないのだものな。オウム事件は次第に当時のあの異様な熱狂などは忘れられ、教科書的知識になっているのかもしれない。(しかし、若い人と話すとき「どれだけオウムの話通じるんやろう」とよく思うのでこの調査はふつうに有難い……。)
「アレフを知らずひかりの輪のみ知っている」という学生が一定いることにも驚いた。オウムの記憶は消え去ってはいないが世代の更新によってイメージは変容しており、こうした中、起こったことに対する緻密な分析が未だ必要であることを述べて結ばれている。



2016.3記す








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